目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第44話 忍者のヒミツ

 忍者という言葉に大きく驚いた多賀一郎と金沢屋に対して、松尾芭蕉は首をかしげ、「なんか忍者のこと、勘違いしてない? 二人はどんな印象もってんの?」と聞く。


 その質問に、一郎と丸木は、また互いの顔を見合わせる。座敷にわずかな沈黙が落ち、行灯が二人の顔に思案の明かりを灯す。


 先に口を開いたのは、丸木だった。彼の低い声が、静かな室内に響く。


 「厳重な大坂城の豊臣秀吉の寝所に一人潜り込んだ忍者が、暗殺しようと顔を眺めていたら、香炉の千鳥ちどりが鳴いたため、秀吉が目を覚まして難を逃れたと聞いたことがあります」と真剣な表情で答える。


 芭蕉は「ふーん、一郎くんは?」と、一郎の顔を見る。


 一郎は待ってましたとばかり、身を乗り出す。


 「伊賀の上忍の一人は、巻物を口にくわえて、仏像みたいな印を結ぶんだ。すると煙がドロンと上がって巨大な蝦蟇がまが現れて、それを操縦するんだよ!」と身振り手振りで話す。


 芭蕉は「蝦蟇? カエルってこと?」と肩をぷるぷるさせながら聞く。


 ウンウンと一郎はうなずき、さらに熱を込めて話す。


 「その忍者が忍術を唱えると、蝦蟇が炎を吐くんだよ!」


 芭蕉は、一郎の熱弁に笑いを堪えきれないといった様子で、くっと顔をそむけ、「…金沢屋さんによると、忍者は暗殺者。一郎くんによると、忍者はドロンと摩訶不思議な術を使う…」とまで言って、「ぷっ」と吹き出す。


 その笑い声に誘われ、丸木も「ぷっ」と吹き出し、二人は腹を抱えて「わはは」と笑い出す。それまでの重い空気を吹き飛ばすかのような、快活な笑い声が響き渡る。


 一郎は「な、なんだよ、二人して。本当なんだから、信用できる人に聞いた話なんだから!」とむきになる。


 芭蕉は「ひぃ」と腹を抱え、涙を拭いながら聞く。「それ、いつ聞いたの?」


 一郎は憮然として、「十五年前…」と言う。


 丸木は口を押さえて笑うのを我慢するが、その大きな身体は震えている。


 芭蕉は遠慮せず、顔を真っ赤にして笑いながら、「誰よ、信用できる人って?」とさらに聞く。



 その頃、大門の中の吉原の妓楼二階の自室で、胡蝶は文机に肘をつき、物思いにふけっていた。


 十五年前、八歳の時に鈴鹿で一郎と過ごした、夢のような十二日間。


 「色んなことを話したなぁ」と微笑むと、「くしゅん」と小さくくしゃみをする。


 「寒くなってきたわね。もう寝ないと」。そう独りごちて、胡蝶は布団に入り、「おやすみなさい、一郎さん。夢で会えるといいな」とつぶやいて目を閉じる。



 「そ、それは…」と一郎は口籠くちごもる。


 芭蕉は、笑い過ぎの涙を拭いながら、丸木に目を向ける。


 「オイラたちに秘密ごとは無しでしょ。ねぇ金沢屋さん」


 丸木は禿頭を茹で蛸のように真っ赤にして、「芭蕉先生、勘弁してください」と笑いを必死で堪えている。


 一郎は、観念したように大声を上げた。


 「あぁ、そうですよ! 胡蝶から聞いたんですよ。だって、鈴鹿は伊賀の隣でしょ。今の今まで信じてましたよ!」


 丸木が我慢できず、「ぶはっ、もう無理です!ガハハハ」と腹を押さえて笑いだす。


 芭蕉も「やっぱりー。ギャハハ」と身体をひっくり返して、手足をバタバタさせて笑い転げる。



 一郎は「芭蕉さんが伊賀出身じゃなかったら、僕は胡蝶の話しを信じてますよ」と憮然として言う。


 笑い疲れた芭蕉は、ようやく体を起こし、「一郎くんと胡蝶ちゃんの甘々なお話を楽しんだところで。真面目な話しをしよっか」と軽く言う。


 座敷に、再び静寂が訪れた。しかし、その空気は、先ほどの重いものではなく、どこか晴れやかで、期待に満ちている。


 「オイラは伊賀の忍者のことをよーく知ってる。てか、伊賀の住民はある意味で、全員が忍者なんだよ、オイラも含めてねっ」


 芭蕉の言葉に、一郎と丸木は、再び真剣な表情になる。


 「だからといって、暗殺したり、摩訶不思議な忍術を使ったりするわけじゃないんだ。今も伊賀と甲賀の正式な忍者たちが江戸城にいるんだけど、やつらは何してると思う?」


 丸木が「天井に忍び込んでの諜報、じゃないんですよね?」と言うと、芭蕉は頷いて、「門番だよ。ただ、立ってるだけ」とサラリと言う。一郎は「そうなんですか?」と驚く。


 芭蕉は説明を続ける。


 「戦国時代に、伊賀の忍びが諜報活動で活躍したのも事実。ただ、彼らの真の強みは、忍術ではなく、伊賀出身者を、様々な戦国武将に、身分の低いものから高いものまで、満遍なく、仕えさせてきたことなんだ。その情報を、統合して、解釈することで、貴重な情報に価値を付加していったんだよ」


 「情報…の…統合…」と一郎は、ぽつりとつぶやく。脳裏に「芸術げいのわざで日ノ本を変える」という壮大な計画への新たな一筋の光が差す。


 「そうさ。情報というものは、単なる羅列では意味がない。点と点を線で結び、全体を解釈することで、初めて価値が生まれる。戦国時代に、その線と点を最も多く持っていたのが、伊賀者だったんだ」と芭蕉。


 丸木も、興奮して身体を震わせる。金沢屋の持つ流通網と情報網。それがいかに重要なものか、丸木自身が一番よく知っている。


 芭蕉は「種を明かせば、単に同郷のものたちが、裏で情報を回していただけなんだよね。だから、太閤さんや東照大権現の世になって、日ノ本っていう考えが出てくると、伊賀忍者はなんの力も無くなって、今は門番さ」と言う。


 一郎は「それで、今、芭蕉さんに忍者になってくれというのは?」と聞く。


 「今回の、オイラが受けた『忍者』の依頼も、まさに情報の統合の場そのものなのさ」と芭蕉は、静かに、しかし力強く言った。


 「この話しを持ってきたのは、陸奥平藩主の内藤風虎さまだ。民の生きがいを創る理想主義的な殿様だけど、家臣たちが藩政を牛耳っていて、お飾りになってる。理想を成し遂げるために、身分を越えた人脈と知識と情報が必要だって言ってるんだ。そのための人脈作りを、オイラに頼んできたってわけ」


 一郎は、芭蕉の言葉を最後まで聞くと、「同郷のつながりを、今度は身分を越えた同好の士の網に広げるということですね」と言うと、芭蕉は大きく頷く。


 「そして、その場としては藩邸でなく…吉原を、オイラが提案したんだ」


 芭蕉の言葉に、一郎と丸木は目を輝かせる。身分を超えた人々が集まる悪所「吉原」。人間の業に澱んだ沼だからこそ、蓮の花が咲くことを、三人は確信する。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?