今までにない霧の多さだったが、量の問題ではない。
まるで大津波が谷を呑み込もうとしているかのような濃さと速さだった。
「一斉に放て!」
CIWSが唸りを上げるなか、塔の下から怒鳴り声が響く。
慌てて手すりに掴まり、下を覗き込む。
数十人の兵士というより、ローブを纏った魔導師たちが、杖の先から白い光を放っていた。
その中心に、ひときわ目を引く女性が立っていた。
視線に気づいたのか、ふと顔を上げる。
この高さからでも、白銀の長髪がわかる魔導士。
銀のローブに包まれ、胸元の星刻の紋が白く脈打つように輝いていた。
「ツバサ! 全兵器で迎え撃て!」
「……えっ?」
「早くしろ! 霧がそこまで来ているぞ!」
俺は慌てて部屋に戻り、タブレットを操作した。
今まで動いていたのはCIWSだけだが、今回は2基のスマートミサイルも起動する。
直後、部屋の中にも響くような轟音が連続し、机の上のコップがガタガタと揺れ、端から落ちて砕けた。
再びデッキへ出る。
「……マジか」
黒い霧は晴れていたが、渓谷のあちらこちらから火の手が上がっていた。
「魔法……じゃない? 本当に、ミサイルなのか?」
地獄のように燃え上がる渓谷を、俺は呆然と見ていた。
そこへ、背中に気配が走る。
振り返ると、さっきの銀のローブの女が、いつの間にかデッキに上がってきていた。
音ひとつ立てずに、当たり前のようにそこに立ってる。
冷たい紫の瞳を持つ美貌の魔導士。
その目は俺じゃなく、ずっと先の戦場を静かに見つめていた。
「……あなたは、さっきの」
「セラフィナ・アストラルド魔導士。ツバサ・ミナセは、以後、私の指揮下に入るよう命じられている」
声は淡々としていた。感情の起伏がまるで感じられない。
そのせいか、逆に重く響く。
冷たく、無駄のない響き。凍った水面みたいに、隙がない。
「魔導士ってことは、リリアナの……部下ってことか?」
「厳密には、直属の軍事顧問。ツバサ・ミナセの戦闘運用も、私の任務に含まれる」
戦闘運用って言い方が、胸を重く締めつけた。
人としてじゃなく、戦力の一部として扱われてる、そんな感覚が否応なく突き刺さってくる。
「俺は一応、人間なんだけどな。そういう言い方、ちょっと引っかかる」
セラフィナは何も言わず、一歩だけ近づいてきた。
でもその動きにも、感情は見えない。
「戦場で感情は判断を鈍らせる。召喚者が味方を裏切った例もある。ツバサ・ミナセの力は、兵器として扱うのが最も理にかなっている」
冷たい声。だけど、そこには迷いなんてひとつもなかった。
「五年前。ゾルティスの罠で、リリアナ様の恋人が死んだ。アレン――かつての召喚者だ。敵の召喚者と接触し、裏切られた」
セラフィナの目が一瞬だけ揺れた。ほんのわずか。でも、感情は出さない。
ただ、過去の出来事を事実として並べるだけ。
「リリアナ様は今でも彼を責めてはいない。でも、もう同じことを繰り返させない」
胸元の星刻の紋が、淡く光っていた。
「私の家族も、三十年前の大戦で死んだ。あのとき、召喚者の力がもっと早く制御されていれば、状況は違っていたかもしれない」
怒ってるわけじゃない。泣きもしない。静かに、当たり前のように語っていく。
だけどその中には、もうどうにもならない悲しみが、ひたひたと沈んでいた。
「私情は排除する。それが私の在り方。ツバサ・ミナセにも、それを求める」
まるで当然のことのように言い切るその姿に、俺は返す言葉をなくしていた。
彼女の存在は、整いすぎている。
何もかも飲み込まれてしまいそうで、息が詰まる。
……この女と一緒に動くってことは、自分の感情を、少しずつ削っていく覚悟がいるってことなんだろうな。
その日の夕食は、お茶漬けに漬物という実にシンプルなものだった。
(第2章 第13話に続く)