【ゾルティス連合・岩壁の塔】
月が雲に隠れては現れ、燃え残った渓谷を青白く照らした。
レイラの折り鶴は、たったいま闇に溶けて見えなくなる。
二通目。これで全部で三通になった。
ちょっと重いかな、と心配しながらも、書く手は止まらなかった。
「名前が分かっただけで近づけた気がする」
そう書いたけれど、本当は怖くてたまらない。
黒い霧の襲撃はほんの数刻前。あの炎の向こうで、彼が無事かどうかも分からない。
もし、霧を操っているのが自分のせいだと思われたら?
そして、もし彼が私を敵だと信じてしまったら?
塔の石壁にもたれ、胸の奥で折り畳んだ不安を指先でなぞる。
夜風が吹くたび、焼け焦げた匂いと灰が舞い上がり、喉の奥が苦くなった。
ふいに、紙がはらりと揺れた。
掌に残った数枚の『月折波』——月光でしか読めない特製の用紙。
満月は今夜が最後、次は新月。もし今夜も返事がないまま月が欠けたら、私はまた長い闇を抱えて待つことになる。
「せめて、無事でいますように……」
祈りの声は風に散っていく。祈るだけでは届かないと分かっていても、祈るしかできなかった。
足音。
振り向くと、黒ローブの魔道士が巡回の報告に来ただけだった。
胸を撫で下ろし、慌てて紙を外套の内ポケットへ隠す。
この手紙のやり取りを、カルヴァスに知られたら終わりだ。
再び一人になると、私は手すりに肘をつき、渓谷の闇を見下ろした。
敵か味方かさえ分からない相手に、どうしてこんなにも言葉を送りたくなるのだろう。
月明かりが指先を照らす。紙は淡く光り、まるで「今度はあなたの番」と催促しているみたいだった。
「ツバサは、返事を書いてくれるだろうか」
そう思った瞬間だった。
カツン、と硬いものが塔の外壁に当たる微かな音。
風に乗って白い影がふわりと舞い、私の足元へ転がった。
折り鶴。
さっき送り出したものとは折り目の形が違う。すぐに前日に出した手紙だとわかった。
月光を受け、鶴が淡く脈打つ。
「……来た」
胸が跳ねた。けれど、すぐに開く勇気が出ない。
もし拒絶の言葉が綴られていたら。
そう考えるだけで手が震える。
呼吸を整え、そっと折り目をほどく。
月の光が紙全体に行きわたり、インクの跡がゆっくりと浮かび上がった。
「あんたが本気で言ってるのか、まだわからない。
でも、俺の名前を呼んでくれたのは、正直……少し嬉しかった。
こんなふうに誰かと話すのは久しぶりだ。
あんたの言葉には、変な嘘っぽさがない。
それだけで、今は充分だ。
言えないことがあるのもわかる。
俺にも、話したくないことは山ほどあるから。
だけど、こうしてやりとりするのは……悪くない。
この紙は、日本では折り紙って言うんだ。
それで鳥の形を折ったものが折り鶴。
次の夜、空を見るよ、レイラ。
ツバサ」
涙が溢れた。
「ツバサ、ありがとう……」
淡く光る手紙を胸に押し付ける。
感じないはずの温もりを感じて、胸が熱くなる。
風が頰を撫でて、髪がふわりと流れる。
遠くを見つめる先に、光るものが見えた。
「えっ、今送った手紙、返事をくれたの!?」
レイラは嬉しさのあまり声を出した。
自分でも分かるくらい大きな声だったので、思わず口を押さえる。
高鳴る思いを抑えつつ、ゆらゆら飛んでくる白い光りに待ちきれなかった。
「はやく、はやく!」
ツバサが教えてくれた言葉を口にする。
「……折り鶴。はやく来て!」
祈りのような叫びに、折り鶴は誘われるようにやがて目の前に舞い降りた。
レイラは目一杯腕を伸ばす。
次はどんなことを知れるだろう。
ツバサはなにを教えてくれるだろう。
手に届いた折り鶴を解くと、文字が浮かぶ。
そこに書かれていた言葉を読み、レイラの目は曇り、やがて大粒の涙がこぼれ落ちた。
涙が紙に落ちないよう、そっと両手で包み込む。
「……ごめんね、ツバサ」
小さくつぶやいた声は、夜風にさらわれていく。
でもその声には、もう怯えや迷いはなかった。
たとえ疑われても、たとえこの距離が埋まらなくても、それでも私は、もう逃げない。
彼の心に、言葉が届いた。
それだけで、今は十分だった。
レイラはそっと顔を上げた。空には雲が晴れ、二つの月が並んで光っていた。
「……ありがとう。待っててね、ツバサ」
そう囁いた瞳は、濡れていたけれど、どこまでもまっすぐだった。
(第2章 第20話に続く)