レイラは塔の石の階段を静かに降りていた。見張りの巡回時間とルートは頭に入っている。
誰にも見つからずに地上へ着くと、かつて獣人の子どもに教わった抜け道を目指した。
そこは昔、渓谷の魔石を採りに行くための道だった。
今では資源も尽き、誰も使わなくなって久しい。
さらに先の大戦以降、渓谷へ通じるすべての道は封鎖され、立入禁止区域となった。
抜け道が今も残っているかどうかは、誰にも分からない。
それでも、レイラは賭けていた。
このままでは、本当に戦争が始まってしまう。
ゾルディスだけを守っても意味がない。
アストラルドにも、大勢の人が暮らしているのだから。
***
【アストラルド・監視塔】
俺は急いで資料室に入り、まず魔導アームを手に取る。
「クソ、こんなことなら新作、完成させておけばよかった」
手のひらにはめる新型の装置は未完成。
峡谷の下に降りるには、旧型のアームに頼るしかない。
だが、両手が使えないという欠点がそのままだ。
それでも周囲にあった使えそうな道具をリュックに詰め込む。
何が必要になるのか、まるで見当もつかなかった。
渓谷の底。
暑いのか寒いのか、どれほど深いのか。何一つ分かっていない。
「あーもう。イライラする!」
手当たり次第に荷物を詰めて、部屋を飛び出す。
渓谷から吹き上げる風が、まるで獣の咆哮のように響いていた。
「……モンスターとか、いないよな?」
武器と呼べるものは、光信号機だけ。
これは黒い霧を霧散させるための装置で、物理的な敵に通じるかは未知数だ。
恐る恐る崖に近づく。
ぎりぎりまで足を進め、下を覗いた。
「くっそぉ……なんでこうなった……」
何も見えない。ただ、暗闇が口を開けているだけ。
吹き上げる風に髪が逆立つ。
振り返って逃げようとする脚を、必死に抑え込む。
「……よ、よし、点火!」
両腕にはめた魔導アームを起動する。シュッという音とともに、体が震えた。
「もってくれよ……魔導アームちゃん……」
レバーを握ると、体がふわりと浮いた。
試運転の経験を頼りに、地面がなくなるタイミングでレバーを握り直す。
操作手順を呪文のように繰り返しながら、そろそろと前へ踏み出す。
ふと、足元が消えた。真下には暗闇。
次の瞬間、自由落下が始まった。
「うぉぉぉ!」
俺の絶叫が、夜の渓谷に裂けた布のように響く。
***
【ゾルティス連合、岩壁の塔】
一方、レイラも渓谷に近づいていた。
誰も追ってきていない。何度も振り返って確認した。
「ここを通れば、いける!」
そう言える理由があった。
崖に沿って造られた足場は、片足がぎりぎり乗るほどの幅しかなく、苔むした石が闇の中へと延々と続いていた。
レイラはふうっと息を吐くと、一歩を踏み出す。
思い出すのは、孤児院での夜。
こっそり部屋を抜け出すために使った、雨戸の溝。
不安定で、所々が朽ちていたが、それでも今よりは慣れていた。
「大丈夫、私なら行ける」
下を見ないように、前だけを見て足を進める。
深淵に向かう足場を、レイラは命がけで下り始めた。
(第3章 第22話に続く)