峡谷の底に着くまで、数分。
体感では、底なしに思えた渓谷だったが、薄っすらと地面が見えたときには思わず声を張り上げた。
「よしゃ、もうすぐ!!」
地面に降り立って気づく。
周りから焼け焦げた臭い、炭のような塊が散乱し、地上からは分からなかった凄惨な光景が、ありありと目の前に広がっていた。
さっきまでの勢いが削がれる。
蘇るのは、横たえた黒い布を被された、死体……。
喉の奥に酸っぱいものが込み上げ、無理やり飲み込む。
「……うぅ。こんなことになっているとは……」
また、自分の想像力のなさに打ちのめされる。
しかし、これが現実だと言い聞かせて、奥歯を噛みしめる。
魔導アームをリュックにしまい、代わりに光信号機を手にする。
もう一つ、ボーラのような投擲武器を手に取る。
小型ボウガンの形状で、紐の両端に礫が付いたそれは、獲物の脚を絡め取るらしい。
「こんな武器があるってことは、やっぱりモンスターとかいるんじゃないか……」
独りごちるが、ないよりはましだと手に取ってみた。だが、何に使うのかという思いが押し寄せ、召喚者の思考が読み解けそうで、慌てて振り払った。
ゴツゴツした岩場と焼け焦げた木。足場はぬかるんでいて、歩きにくい。
角を曲がるたびに、小さな悲鳴が漏れる。
真っ直ぐな道はなく、右へ左へと進むうちに、どっちに進んでいるのかわからなくなった。
それでも、と自分に言い聞かせ、ついでに小さな、ときには大きな悲鳴を上げながら進む。
そのときだった。
「あっ。俺、どうやってレイラを探すんだ?」
今さら、今さらだ。
姿かたちを知らない相手を、こんな辺鄙な場所で、しかも待ち合わせ場所もなし。
「……詰んだかもしれん」
呆然と立ち尽くす。
だが、近づいてくる足音に、まだ気づかなかった。
***
【アストラルド、監視塔】
ひとりの女魔導士が塔のデッキに立ち、暗闇の渓谷を見下ろしていた。
月光はなく、暗闇に染まる渓谷。
それでも魔石の残滓の影響か、微かに光を帯びた光景が、紫の瞳に映る。
「裏切ったか……」
白壁の塔を暗闇が覆うなか、わずかに笑い声を漏らした女魔導士。
胸元に刻まれた星刻の紋が、淡く光を帯びた。
もし聞けば背筋を凍らせ、血の気が引くであろうその声。だが、幸いにも、それを聞く者はいなかった。
***
【ゾルティス連合、岩壁の塔】
「上手くいきました」
塔の闇の中で低く囁く声。
「召喚者は単純で助かる」
答えた相手もまた、暗闇に紛れていた。
「次の段階に進みます」
「ああ、頼む。ルクセリオンを我が手に」
「ルクセリオンを我が手に」
妄信的に繰り返すその声は、やがて闇に漂い周囲を飲み込む呪言となった。
(第3章 第23話に続く)