東京駅から中央本線で甲府まで行き、そこから塩尻の手前、辰野駅で飯田線に乗り換える。飯田線は長野県辰野から愛知県豊橋までを結ぶ長い線だ。電車は生活の足としても利用されているらしく、学生も多く乗り込んで来ていた。延々と電車に揺られ続け、山間を列車で進むと、飯田駅に降り立つ。駅前のロータリーに大きな木が一本立っており、タクシーが何台も止まっている。学生たちに交じって降りると、僕は長旅の疲れと体の強張りを伸ばすために大きく伸びをした。早朝に東京を出発してから7時間弱はかかっている。ずいぶんと遠くまで来たものだが、これからさらに、バスで移動する。
駅を振り返ると、朱い瓦の屋根に白い「飯田駅」という文字が何ともかわいらしい。
飯田駅からは市民バスが出ているとのことだったので、駅前の案内所で訊いてみる。目的の村まで直通のバス停はないとのことで、一番近い停留所を教えてもらった。
「旅行であんな村まで行かれるんですか?」
案内所の女性に不思議な顔をされる。僕は苦笑いしつつ、親戚の所用で、と話した。
出発まで少し時間があったので、依頼されていた物を買い求めるとバスに乗り込んだ。
飯田駅から市民バスに乗り込み、1時間半ほどバスに揺られて山間部へ向かう。このバスも生活に密接しているようで、ひっきりなしに人が乗り降りしていく。駅前の賑わいを抜けると、すぐに長閑な田畑を抜けて緑豊かな山に入っていく。僕はバスの後部座席で登山用のリュックサックと買ったものを抱え、窓から流れる景色と乗り降りする人を興味深く見ていた。
教えてもらった停留所「
僕は地図を片手に少し急ぎめでゆるく傾斜した道路を歩く。でも、リュックを背負い荷物も抱えているので難しかった。すると背後から白い軽トラがゆっくりと通り過ぎていき、少し前で止まった。運転席の窓から顔を出した年配の男性は、
「――あんた、こんな山の中でどこに行くんか?」
と、声を掛けてきた。日に焼けて、農作業の帰りといったふうだ。
「すいません、東京から親戚の使いで来たんですが、遅くなってしまって。この辺りに、『水神社』てありませんか?」
「東京から? そらー遠いところから。……水神社って、隣の村のことだったら、ここから丘を迂回して少し歩くけども」
道の先までを指し、驚きながらも怪訝そうに言う。どことなく懐かしいようなのんびりした口調だ。
「そうですか、地図があるので大丈夫です。宿は『那谷村』で取ってもらっているので、夜までに着けば問題ないです」
「はあー。那谷村ねえ……」
僕の全身をジロジロ見ながら相槌を打ち、冴えない貧乏学生そのものといった外見を眺める。僕の風情のどこかに納得してくれたのか、
「まあ、コレならすぐだから、神社の下まで送ってやるわ」
男はそう言って、車のドアをバンバンと叩く。
「え、あの、それは申し訳ないので」
慌てて固辞しようとする僕に、いいからいいから、もう日も暮れるから、と誘う。正直ありがたかった僕は、恐縮しつつ助手席に乗らせてもらった。
迂回して少し歩く、と言われた道は、都会で暮らす僕にとってはアップダウンの激しい山道だった。辛うじてコンクリ舗装されてはいるものの、これでは30分は歩くことになっただろう。だが、軽トラで進むと10分かからないくらいだった。
着いたのは、どう見てもうっそうと木が茂った小高い山だ。辛うじて道路から伸びているのは舗装もされてない、獣道に毛が生えた程度の道だ。道幅は1メートルあるか、脇に白く塗られた木製の小さい矢印が立っていた。表面は毛羽立ち、文字は薄く『水神社』と読める。
「この村の宿なら『民宿
来た道は丘の方に曲がったが、今度はさらに村の方に進む道を教えてくれた。
「親戚に頼まれて祭の代行だというが、あんたお人よしだなあ。まあ、……気をつけてな」
何やら歯に物が挟まったような言葉を残し、男は狭い道路を器用にUターンすると戻っていった。意味深なことを言われたが、部外者が村の祭に参加するという話も大概のため、僕は無言で頭を下げた。
山の中に分け入っていくように思っても、標高はそれほど高くないという。連なる林と森の村中で、比較的きれいなおむすび型のような小高い丘の頂上に、『水神社』はあるという。
暮れ始めた空に促されるように、僕はその神社への道を上り始めた。
緩く蛇行しながら頂上を目指す道は、左右に針葉樹が生えている、まるでハイキングコースのようだった。草木が道を阻むというほどでもなく、道の維持はされているように思える。ただ、針葉樹が日の光を遮り、夕方近くの道は視界が悪くなってきていた。
神社といえば、もうすこし清々しさを感じてもいいと思うのだが、やはり、寂れているというか寒々しいと感じてしまうのは、日が傾いているからだろうか。
途中ひと息つけるような手ごろな太さの木が道の脇にあったので、持っていた物を置き、持参してきた水筒で喉を潤した。アルミ製のまるっとしたフォルムに革のベルトが付いている登山用の水筒は、父から譲り受けたもので気に入っている。今回の旅も活躍してくれた。
木に寄り掛かって汗を拭い少し休んでいると、視線の先に小さな木製の古い祠があった。扉は開いており、木の棒に紙か布を垂らした御幣が見える。でも、それ以外に何を祀るものなのか手がかりのようなものはなかった。
(上の神社に関係するのかな)
そう思い、再び頂上を目指して歩き出した。
20分は歩いただろうか。視界が拓けて急に明るい場所に出た。大きく息をついて顔を上げると、頂上を見渡して、僕はポカンとした。
頂上は、確かに拓けてはいるが、社務所も社殿も見当たらない、公園のような整地だけされた広場だった。奥に、白木の素朴な鳥居と、驚くほどこじんまりとした木製の社があり、少し樹々が切れた先に何かあるようだったが、それだけだ。
「……祭が行われるって話じゃなかったのか?」
狐につままれたような気分というのは、こういうものだろうか。がらんとした空間は、やはり清浄というよりは寂れた寒々しさを感じる。祭の準備など何もない。明るいと感じたのも束の間、空は夕闇に向かっていた。釈然としない気分のまま、奥の社に向かって歩く。近づいて見ても、社は僕の背の高さを少し超すくらいの大きさしかなかった。
(もう、この際疑問は後回しにして、依頼されていることをやろう)
頭を切り替えて、白木の鳥居をくぐる。白木は古く年季が入ったもので、大人の男がぎりぎりくぐれるくらいの高さだ。社もかなり風雨にさらされた雰囲気があり、小さく『水神社』の扁額が彫られていた。社の内部は、周囲が暗くなっているためか全く見通せなかった。
社の前に立ち、持っていた一升瓶の日本酒を袋から取り出した。これが、頼まれていたことの一つ目。――一升瓶の日本酒を買い求め、『水神社』にお供えすること。
社の扉の前にある台に酒を置き、柏手を打って手を合わせる。
(「山内の北澤茂の代理でまいりました。奉納品をお納めください」)
そう小さく呟き、頭を下げた。顔を上げ、置いた酒を手に持つと社の裏手に回る。見えてきたものに、僕は目を見張った。
社の影になってよく見えなかったものは、巨大な岩だった。大人が四、五人両手を広げても足りないくらいの大きさだ。それが社の裏の地面に埋まり、高さ1メートルほど上部が見えていた。ゴツゴツとした岩肌には苔が生えている。少し出ている表面には数本の木がむき出しに張り付き、まるで木の根が抱え込むように植わっている。古さと荘厳さを感じさせた。
(磐座だったのか……)
巨大な岩の向こうは、絶壁になっているようで空間が拓けていた。そこだけ木が途切れており、田畑と森が折り重なった間に民家がある村が見渡せた。夕陽が差す村の情景は美しく、見晴らしのよさに一瞬心を奪われる。
しかし、夕闇が迫っている風景に、手に持った酒のことを思い出した。
僕は磐座に一礼すると、酒の封を切る。そして、中の酒を磐座に思いきり撒いた。これが、頼まれていたことの二つ目。――社の裏に行き、そこにあるものに酒を注ぐこと。
磐座があるとは聞かなかったが、これが神の依り代であることはわかった。埋まっているため全容がつかめないがとてつもなく大きな岩なので、注ぐというよりは撒いてしまった方がいい気がする。しかも、足を掛けるのはいくら何でも不敬だろう。
景気よくバシャバシャと酒を撒くと、辺りに上等な日本酒の香りが充満した。いい酒を買ってよかった。これで頼まれたものはほとんど終わったも同然だ。何だか気分が良くなった僕は、山を下りようとした、その時。
――パン!
背後から紙風船が破裂するような音が聞こえ、思わず体ごと振り向く。すると、首から斜めに下げていた水筒の革の紐が、耳障りな音を立てて千切れた。そのまま、振り向いた遠心力でするっと抜ける。
視界の端に、驚くほどの放物線を描いて飛んでいく水筒が見えた。水筒は磐座の上部にぶつかり、鈍い鐘の音のような音を立てて崖の向こうに消えていった。
「…………は?」
――何が起こったのだろうか。
口をポカンと開けて呆然とする。目の前で起きた冗談のような出来事が信じられず、僕はしばらくそこに立ち尽くした。