予約されていた宿は、宿というよりは少し大きめの民家だった。すでに暗くなっている道をトボトボと10分ほど歩くと、右手に「民宿山込」が見えてきた。広い駐車スペースが取られた前庭が見え、畑の間を小さい私道が抜けている。明かりの点いた玄関の上には、自然木から彫った「民宿山込」の看板が立派にかかっているが、引き戸は普通の格子戸だった。その引き戸を開けると、奥から年配の女性が出てきた。
「すいません、遅くなりましたが予約の
「ああ、はい。東京からの。……山内の北澤さんから予約いただいてますね。どうぞ」
記帳をした後、女将に続く。階段を上ると、狭い廊下を挟んで左右に数部屋が配置されいているらしかった。僕に案内された部屋は六畳で、隅に小さめの座卓と、奥の襖の先に小さい広縁もある。
「今日は珍しく他にもお客様がいらしてますので、ご注意ください」
形ばかりの説明と愛想でお辞儀をすると、女将はそそくさと出ていった。
(何か、歓迎されてない……のかな)
うっすらとそう思ったが、山内のおじさんおばさんがどのような説明をしているのかよくわからない。ただ、村内の祭に余所者が参加するのを快く思わないというのはあるのではないだろうか。でも仕方ない。明日、村長の家に伺うことになっているのを思うと憂鬱だった。
「……疲れた」
列車旅の疲れと、山道のような参道を上り下りした疲れ、水神社での出来事が相まって、荷物を置きそのまま横になる。あの水筒は気に入っていたのに。……いやそれよりも、あんな冗談みたいな事があるほうが可笑しいだろう。全ては一瞬で何が何だか今でもわからない。
目を瞑ってぼんやりと考えていたら、いつの間にかうつらうつらしていたらしい。外で大声を出すのが聞こえてハッと目が覚めた。
慌てて起きて時間を確認すると、もうすぐ夜の7時になるところだった。夏に掛かるこの時期は少しだけ空が明るいが、もう夜だ。耳を澄ませると、すぐ外の道路で誰かが大声を出していた。窓を開けると、懐中電灯を持った数人が集まっていて騒いでいるようだ。
すると階下からドタドタと階段を駆け上がる音がし、乱暴に部屋の襖が叩かれた。
「あの、藤木さん。ちょっと来ていただけますか」
先ほどの女将ではなく、年配の男が慌てたように声をかけてきた。僕は慌てて襖を開ける。
「何かあったんですか」
日に焼けた顔の、中肉中背の50代くらいの男が立っていた。この宿の主人だろうか。僕より目線が少し低い。その目はおどおどとしていて、顔が強張っていた。
「藤木さんに会いたいと、下に村長たちが来てまして」
僕は目を瞬いた。僕が来ていることを、山内のおじさんからか聞いたのだろうか?
「――わかりました」
外の騒ぎが気になりつつも僕が頷くと、主人はホッとしたように促した。主人の後について階段を下り、外に出た。
外はすでに夜の様相になっており、暗い中、前庭に集まっている懐中電灯を持ちよった影が五、六人ほどいた。宿の玄関からの明かりで辛うじて顔が見えるが、中心にいる70代くらいの男が村長だろうか。心なしか緊迫感が漂っている。
「あんたか、今日来た藤木さんというのは」
口火を切ったのは、やはり中心の男だった。
「はい。あの……村長さんですか? 明日ご挨拶に伺う予定だったと思うんですが」
僕は頷き、おずおずと訊いた。
「村長の
後ろの男が取り出した物を村長が見せてきた。それは、水神社の崖から落ちた僕の水筒だった。所々凹んで汚れているが、革が千切れている以外は問題なさそうだった。
「あ! そうです! 拾ってくれたんですね」
思わず喜びの声を上げた僕に、誰かがやっぱり、と声を上げた。村長は目に見えて顔を強張らせた。
僕は何が何だかわからず、不安になる。村長はため息をつく。
「――あんたのこの水筒が、村の神域の端で見つかったんだ。あんた、今日はその神域に行ったんか?」
「……山内のおじさんの息子、北澤茂君に代理を頼まれて、水神社にお参りしました。祭に必要だって言われて……」
「水神社に? 祭の代理って何の話だね」
さらに怪訝そうな顔をされ、僕は冷や汗をかく。周囲の男たちもざわざわと何事か話している。
「おい、埒があかんから誰か山内の北澤に訊いてこい」
村長の指示を聞いて、後ろの男が一人、小走りに去っていく。
「……あの、そこでお参りした時に、ちょっと事故が起こって水筒が落ちてしまってそれで……」
ますますしどろもどろになる僕に、手を振り言葉を遮ると、村長は話し始めた。
「あそこは神域で、余所者が行くようなところじゃあない。北澤のが何を頼んだか知らんが、あんたはやっちゃいけないことをしたんだ。この水筒」
手に持った水筒を掲げる。
「これが今日見つかった脇で、大切な祠が壊れていた。しかも北の『オンベ様』だ。これが何を意味するかわかるか? ……あんたは、村の祭祀が行われるというのに禁忌を犯したんだ」
厳かな声が響く。
「この男を生贄の舟に乗せる」
途端に、背後にいた男たちが僕に掴みかかり、羽交い絞めにしてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 僕は北澤さんに頼まれて来ただけで……! しかもそれは事故なんです!」
僕は慌てて抵抗するけれど、後ろの男たちはビクともしなかった。
「祠が壊れた事実は変わらない。よりによって北の祠を……。厄介なことをしてくれた。生贄にして祟りを避けるしかない」
「そんな! あんまりだ!」
僕は大声を出して抵抗する。頼まれたことをしただけで生贄だなんて冗談じゃない。後ろの男たちが、こいつ! 大人しくしろ! と怒鳴った。すると、宿の方から場違いに凛とした女性の声が響いた。
「何を騒いでいるんですか?」
場に静けさが戻る。声がした方を見ると、僕はポカンとした。
そこにいたのは、驚くほど綺麗な少女だった。宿からの光が逆光になっているのに、顔が皓々と輝いて見える。黒髪は肩よりも長いくらいで、きらきらと光を放っていた。
大きな瞳は真っ直ぐ僕を見て、続いて長老に視線を移す。
「客人には関係のないことです。お騒がせしてすみませんが、村の決まりなので」
村長がバツが悪そうに言う。客人、と言われた少女は、再び口を開く。
「関係がなくはないでしょう。私は祭の『守り役』で招かれているんです」
「それは……そうだが」
「この人がどうしたんですか?」
守り役、と言った少女が歩いてくる。周囲の男たちも、気を飲まれたかのように拘束が緩んだ。僕に視線を向ける。
「……壊してはいけない祠を壊した。事故だったとはいえ、神事の前に不吉だろう」
「事故?」
「今回の神事の担当が、山内の北澤家だ。何かの手違いでこいつをよこして不用意に神域に入らせたらしい」
「その北澤さんは?」
「――今確認に行ったが、大方逃げたんだろう」
忌々しそうに吐き捨てた。
「それではすでに、通常の進行ではないですね。祭は延期しないのですか?」
「それはできん! 四日後の祭は動かさない」
村長は強い口調で否定した。そうですか、と少女はあっさり引き下がる。
「私は『守り役』として依頼されていますが、人を生贄にするなどは聞かされていません。どうするのですか?」
「オンベ様が決める。祭の進行で、オンベ様が裁くだろう」
生贄、という話は決定事項なのか。少女も否定はしていない。僕は話の進行が見えずにハラハラする。何が行われるのだろうか。しかもどうやら、“オンベ様”というのが祭の神様らしい。祠、と言われて遅ればせながら山に上った時に見た小さな木の祠を思い出した。帰りに見た時には在ったから、あれがもう一つあるのだろうか? しかし、祭の神がオンベ様なら、頂上にあったあの神社は何だったのだろう。
「この人を捕まえてどうするんです? その辺に縛っておくわけにはいかないでしょう?」
重ねて少女が問うと、
「うちの蔵にでも繋いでおくわ。もういいだろう」
村長がそろそろ面倒になってきたのか、うるさそうに話を終わらせようとする。僕は慌てて声を出そうとしたが、再び少女の声に遮られた。
「私が預かります」
その申し出に、そこにいた一同が唖然とした。