風がないのに、風が吹いたようだった。
高く高くそびえる白樹の神木(しんぼく)は、城の中庭にひっそりと根を下ろしている。
8つの王家に連なる者にしか立ち入れぬ、閉ざされた聖域。
そこに今、選ばれた者だけがいる。
「これより、言霊(ことだま)の儀を執り行います。」
アマカギの声が響く。
その身に朱金の羽飾りを冠し、長く流れる銀白の髪は神光のように揺れている。
アマカギはこの国の君、そしてア家の祭司。
この儀式を執り行えるのは、魂の音を聴く力を持つ者に限られていた。
その腕の中には、産衣にくるまれたアミツキ――まだ言葉を発することもできない、小さな命。
アマカギの隣に立ち、アミツキをそっと抱き取ったのは、黒藍の髪を束ね白装束に身を包んだイハナギ。アミツキの父にして、保護者。この儀において、唯一、祭司の内に踏み込むことが許される存在である。
他のものは家族でさえも立ち入ることはできない。そのため姉たちは、中庭に面した縁台に御簾を下ろし、さらに御帳を置いた奥で静かに見守ることしか許されない。
「魂は天の定めに従いて地上に降りたもうた。ここに世界と御魂を結ぶべく真名を大地に縁付ける。」
アマカギがアミツキの額にそっと手をかざす。
そこにあるのは、まだ淡い“仮の紋”。
世界に生まれ出た子は、まだ地上に許されてはいない。ただ祈りと愛に包まれて、その存在を守られ育まれてきた。
けれどこの瞬間、魂に刻まれた“真名”が顕れれば、その名は世界に認められ、生ける者となる。
「さあ。アナタの魂に、宿る音を、聞かせて。」
それはかつて始まりの独り神が愛し子たちに行ったとされる儀式。天の世界から地上に降りてつつがなくその役目を果たせるようにと祈りを込めた守りの儀式。
それがいつしか大地に魂を根付かせ子が健やかに育つように守りの力を授けるものへと変化していった。
指先が紋に触れた瞬間――。
ふ、と、空気が震えた。
神木の幹に、かすかに光が走る。その葉が、風のない空に、さやりと震えた。
アマカギの瞳が静かに開かれる。
紅い瞳の奥に、何かが見えた。
「……“ ”。」
その一音が、確かに魂から立ちのぼった。生まれたときから、その魂に刻まれていた、たった一つの音。
されど決して誰にも聞かれてはならぬ魂の名前。一言の神に守られし証。
「真名に持つあなたに、命の歌を捧げましょう――」
アマカギが瞳を閉じ、そっと口を開く。
『あまつはらより ふる光
えにしに芽ぐむ ひとつの実
あかつきに まどかに笑みて
えがおとともに 道を照らせ
あまねく命と めぐりあい
えにしのうねに 花を咲かせ
あめつちのはざま しずもりて
エの枝の葉よ 名をむすべ』
歌が終わった瞬間だった。
閉ざされたはずのそこに一陣の風が駆け舞い上がる。煽られた神木が、葉を揺らしながらまるで言祝ぎのように光を放った。
金でも銀でもない、生まれたての命の光。
アミツキの額の紋が、淡く輝きながら、その形を変えてゆく。揺るぎない“真紋”がそこに結ばれた。
「これにて、儀は結ばれました。アミツキ。今この世に――あなたの魂が、受け入れられました。」
アマカギがほほ笑み、そっと子の額に口づけを落とす。
イハナギはその姿を静かに見守り、そして――微笑んだ。
「ようこそ、アミツキ。お前の名は、世界に刻まれた。」
そのとき、御簾の向こうで待っていた姉たちが、はっと顔を上げた。
光が満ちてゆく気配に、まだ出会って間もない妹の存在が、確かにこの世界に生まれたことを知ったのだった。
神木の光がやわらかに収まり、儀式の帳が静かに下ろされたころ。城の聖域の門が、ぎい、と音を立てて開かれる。
「……終わったの?」
祭司の装束を解いたアマカギが、やわらかくうなずいた。
儀式の終わった母は座敷に座る娘たちにそっと近づいて無事に事がなったことを微笑みで教えていた。
その娘たちの中に、少し緊張の混じった面持ちでじっと見つめる少年がいた。
黒藍の髪を後ろで束ね、母譲りの涼やかな輪郭と、父譲りの落ち着いた眼差し。それでもその指先だけは落ち着かず、裾をきゅ、と握っている。
そして父のイハナギが、その腕に小さな存在を抱えて現れる。
「イツキ。……紹介しよう。これが、お前の妹。アミツキだ」
「……。」
イツキは、何かを言おうとして、言葉に詰まる。
うっすら桃色がかった鱗。白金の毛並みに、ひと筋だけ羽根のように朱金が差す前髪。
そして――
「……目が、左右ちがうんだ。」
真紅と、淡い琥珀。
その瞳が、まっすぐにイツキを見上げていた。言葉は話せない。でも、確かに伝えてくる。「はじめまして」そんな音にならない声を伝えるようにクゥと鳴いた。
イツキは、少しだけ顔をほころばせて、しゃがみ込んだ。
「やっと会えたな。……おれ、おまえのマトカラなんだ。えっと、分かるかな?同じ父と母を持つお兄ちゃんだ。」
アミツキはぱちぱちと瞬きし、そして――「きゅぅ」と、喉を鳴らした。それは、どう聞いても嬉しそうな音だった。
「……あ、今ちょっと笑った!? え、笑ったよな今!」
イツキが慌ててイハナギを振り返る。
「うむ。うれしかったんだろう。」
「え、え、ちょっと可愛すぎない!? なにこれ、すっごいふわふわしてる……あ、でも鱗のとこ冷た……え、あれ? 爪、赤い? えんじ……?」
興奮して次々とアミツキを撫で回そうとする兄を、イハナギが咳払い一つで制した。
「イツキ。ほどほどにしておけしつこいのは嫌われるぞ。」
「……はい。」
それでもイツキは、頬をゆるませたまま、小さくつぶやいた。
「……ようこそ、アミツキ。ここに来てくれて、妹に生まれてくれて、ありがとうな。」
その声は、かすかに震えていて、でも芯のあるやさしさを湛えていた。
抱かれたままのアミツキも、くぅん、とまた鳴いた。