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第13話 お兄ちゃんという人

 「そして、ひとたび風が鳴くとき、麒麟はそのたてがみに願いを乗せ、天と地のはざまを翔けるのです――。」


 イツキの穏やかな声が、日の差す部屋にゆっくりと広がっていた。


 その膝の上には、うす桃の鱗と白金の毛並みを持つ、ふわふわの小さな子。アミツキは、さっきからずっと、うっとりとした顔で彼の声を聞いていた。


「……おしまい。」


 本を閉じると、ぱたん、という軽い音と同時に、アミツキが、くいっ、と鼻先で絵本を押し戻した。


 「キュン……!」


 「……もしかして、もう一回?」


 イツキが少し目を丸くして笑うと、アミツキは得意げに鼻を鳴らす。朱金の前髪がふわっと揺れて、ぴたりと彼の胸元にくっつく。


 「読んでもらう気まんまんだな……。」


 声にはあきれ混じりの優しさ。もう一度表紙を開こうとしたとき――。


 「ふふ、気に入ったみたいね。」


 後ろからアマカギの笑声がした。紅と金の羽飾りが陽を受けて輝く中、優しく目を細めて二人を見ていた。


 そのすぐ隣では、淡銀青の瞳がふと揺れる。


 「代わって読んでやろうか?」


 そう申し出たイハナギが一歩踏み出そうとすると――。


 「……っきゅ!」


 アミツキはすばやくイツキの膝に体を預け、そのまま動かなくなった。まるで「ここはわたしの場所!」とでも言いたげに、きゅぅっと甘えた声を漏らす。


 「……あらら。」


 「……ああ、そういうことか。」


 アマカギは口元をそっと手で押さえて微笑む。イハナギは小さく肩をすくめながらも、心の奥でその光景を静かに喜んでいた。


 イツキはというと――。


 「まったく……しょうがないな。」


 小さくため息をつきながらも、目元には明らかな嬉しさ。絵本をもう一度開いて、ページをめくる音がまた静かに始まる。


 そして、ふたたび流れ出す、兄の声。


 「むかしむかし、ひかりの中から、生まれた獣がおりました――。」


 イツキの落ち着いた声がまた部屋に満ちる。


 アミツキは彼の膝にちょこんと座り、ぴくりとも動かず、その語りに耳を傾けていた。


 うっとりとしたまなざし、甘えるような息づかい――。まるで、この世界のすべてがその声の中にあるように。

だが、そんな静かな時は――。


 「おにーちゃーん!あたしたちもいるー!」


 「ずるい!アミツキばっかり!!」


 「わたしも読む!ひとりで読めるもん!」


 ――ガラッ!


 襖が勢いよく開いた瞬間、三つの風が駆けこんできた。


 一番に飛び込んできたのは、長女アマユラ。きちんと結った三つ編みがぶんぶん揺れている。そのすぐ後ろから、金橙の髪をリボンで跳ね上げたアサナミ。狐面柄の帯が風に舞った。


 最後に、背はまだ小さくても一番勢いよく突進してきたアナキメが、どしん!と勢いよくイツキの脇に座り込む。


 「こらこら、順番って言葉知らないのか?」


 イツキが苦笑混じりに言うと、アミツキが「きゅっ」と小さく鳴いて、びくっと振り返った。


 三人の姉たちと目が合い――


 「きゃあ〜!やっぱりアミツキ可愛い〜〜!!」


 「もー、わたしのほうが先に会いたかったのにぃ〜!」


 「おにーちゃん、アミツキって本に夢中になるの?すごーい!」


 次の瞬間には、アミツキのまわりにふわふわと姉たちが集まり、イツキの膝の上は、まるでお話会の特等席のようになってしまった。


 「……さて、読めるのか、これで。」


 サル団子よろしく妹たちの囲まれて、イツキがため息まじりにページを戻そうとすると――。


 「読むの!」


 「つづきから!」


 「あたしが絵見せる役やる!」


 と三姉妹の声が重なった。


 その賑やかさに、部屋の奥で静かに見守っていたアマカギが、肩を揺らして笑う。


 「ふふ、イツキ。お兄ちゃんって、大変ね。」


 「……ほんとに。ぼくが読んでも誰も膝に乗ってくれたりはしないのにな。」


 イハナギのぼやきに、アマカギはまた笑いを深くする。


 「それは……あなたが“お父さま”だからでしょう?」


 「……それもそうか。」


 イツキが視線を上げると、アマカギとイハナギのあいだにある静かな光が目に映った。


 アミツキはというと、騒がしくてもまったく気にする様子もなく、姉たちの声をBGMにしながら、イツキの胸に顔を埋め――。


 すぅ……すぅ……。


 「……寝てる!?」


 アナキメがびっくりした顔でのぞき込んだ。


 「こっちはテンションマックスなのにぃ……!」


 イツキは、アミツキの頭をそっとなでながら、その寝息に合わせるように、小さな声で続きを読みはじめた。


 「……麒麟は、願いをたてがみに乗せて、空のはざまを歩む。それは光のしずく、夢のかけら――」


 その声に、今度は三人の姉たちが、ふと静かになる。


 「……ねぇ、イツキ。つぎのページ、どんな絵?」


 アサナミがそっと聞いた。


 「ほら、この子が願ったのはね……。」


 兄の声が、静かに部屋を包む。


 陽だまりの中で、五人のきょうだいたちは、ひとつの物語に心を寄せ合っていた。


 それは、誰よりも強くて、やさしくて――。かけがえのない絆が、そっと育ち始めた、春の午後だった。


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