「そして、ひとたび風が鳴くとき、麒麟はそのたてがみに願いを乗せ、天と地のはざまを翔けるのです――。」
イツキの穏やかな声が、日の差す部屋にゆっくりと広がっていた。
その膝の上には、うす桃の鱗と白金の毛並みを持つ、ふわふわの小さな子。アミツキは、さっきからずっと、うっとりとした顔で彼の声を聞いていた。
「……おしまい。」
本を閉じると、ぱたん、という軽い音と同時に、アミツキが、くいっ、と鼻先で絵本を押し戻した。
「キュン……!」
「……もしかして、もう一回?」
イツキが少し目を丸くして笑うと、アミツキは得意げに鼻を鳴らす。朱金の前髪がふわっと揺れて、ぴたりと彼の胸元にくっつく。
「読んでもらう気まんまんだな……。」
声にはあきれ混じりの優しさ。もう一度表紙を開こうとしたとき――。
「ふふ、気に入ったみたいね。」
後ろからアマカギの笑声がした。紅と金の羽飾りが陽を受けて輝く中、優しく目を細めて二人を見ていた。
そのすぐ隣では、淡銀青の瞳がふと揺れる。
「代わって読んでやろうか?」
そう申し出たイハナギが一歩踏み出そうとすると――。
「……っきゅ!」
アミツキはすばやくイツキの膝に体を預け、そのまま動かなくなった。まるで「ここはわたしの場所!」とでも言いたげに、きゅぅっと甘えた声を漏らす。
「……あらら。」
「……ああ、そういうことか。」
アマカギは口元をそっと手で押さえて微笑む。イハナギは小さく肩をすくめながらも、心の奥でその光景を静かに喜んでいた。
イツキはというと――。
「まったく……しょうがないな。」
小さくため息をつきながらも、目元には明らかな嬉しさ。絵本をもう一度開いて、ページをめくる音がまた静かに始まる。
そして、ふたたび流れ出す、兄の声。
「むかしむかし、ひかりの中から、生まれた獣がおりました――。」
イツキの落ち着いた声がまた部屋に満ちる。
アミツキは彼の膝にちょこんと座り、ぴくりとも動かず、その語りに耳を傾けていた。
うっとりとしたまなざし、甘えるような息づかい――。まるで、この世界のすべてがその声の中にあるように。
だが、そんな静かな時は――。
「おにーちゃーん!あたしたちもいるー!」
「ずるい!アミツキばっかり!!」
「わたしも読む!ひとりで読めるもん!」
――ガラッ!
襖が勢いよく開いた瞬間、三つの風が駆けこんできた。
一番に飛び込んできたのは、長女アマユラ。きちんと結った三つ編みがぶんぶん揺れている。そのすぐ後ろから、金橙の髪をリボンで跳ね上げたアサナミ。狐面柄の帯が風に舞った。
最後に、背はまだ小さくても一番勢いよく突進してきたアナキメが、どしん!と勢いよくイツキの脇に座り込む。
「こらこら、順番って言葉知らないのか?」
イツキが苦笑混じりに言うと、アミツキが「きゅっ」と小さく鳴いて、びくっと振り返った。
三人の姉たちと目が合い――
「きゃあ〜!やっぱりアミツキ可愛い〜〜!!」
「もー、わたしのほうが先に会いたかったのにぃ〜!」
「おにーちゃん、アミツキって本に夢中になるの?すごーい!」
次の瞬間には、アミツキのまわりにふわふわと姉たちが集まり、イツキの膝の上は、まるでお話会の特等席のようになってしまった。
「……さて、読めるのか、これで。」
サル団子よろしく妹たちの囲まれて、イツキがため息まじりにページを戻そうとすると――。
「読むの!」
「つづきから!」
「あたしが絵見せる役やる!」
と三姉妹の声が重なった。
その賑やかさに、部屋の奥で静かに見守っていたアマカギが、肩を揺らして笑う。
「ふふ、イツキ。お兄ちゃんって、大変ね。」
「……ほんとに。ぼくが読んでも誰も膝に乗ってくれたりはしないのにな。」
イハナギのぼやきに、アマカギはまた笑いを深くする。
「それは……あなたが“お父さま”だからでしょう?」
「……それもそうか。」
イツキが視線を上げると、アマカギとイハナギのあいだにある静かな光が目に映った。
アミツキはというと、騒がしくてもまったく気にする様子もなく、姉たちの声をBGMにしながら、イツキの胸に顔を埋め――。
すぅ……すぅ……。
「……寝てる!?」
アナキメがびっくりした顔でのぞき込んだ。
「こっちはテンションマックスなのにぃ……!」
イツキは、アミツキの頭をそっとなでながら、その寝息に合わせるように、小さな声で続きを読みはじめた。
「……麒麟は、願いをたてがみに乗せて、空のはざまを歩む。それは光のしずく、夢のかけら――」
その声に、今度は三人の姉たちが、ふと静かになる。
「……ねぇ、イツキ。つぎのページ、どんな絵?」
アサナミがそっと聞いた。
「ほら、この子が願ったのはね……。」
兄の声が、静かに部屋を包む。
陽だまりの中で、五人のきょうだいたちは、ひとつの物語に心を寄せ合っていた。
それは、誰よりも強くて、やさしくて――。かけがえのない絆が、そっと育ち始めた、春の午後だった。