夢を見た。
夜の帳の下、淡く光る川辺。
風に揺れる木立の奥、幼い足音が跳ねるように駆けていく。
――フサナギ。
そして、その背を追う兄、フユミチ。
アミツキの白金のまつげが震えた。
夢の中で、川の土手が崩れる。
フユミチの姿が一瞬空に舞って――。
「……っ!」
はっと目覚めた時、アミツキはまだ息を詰めていた。
体は小さく、言葉もまだ話せないけれど、胸の奥が、魂ごと揺れるような不安に包まれていた。
(こわい……でも、なんとかしなきゃ……)
次の日。空は雲ひとつない快晴だった。
「今日は家族みんなでお散歩に行きましょうね。アミツキ。」
母アマカギの手にだかれ、アミツキはこくんと小さくうなずいた。
父イハナギが静かに微笑む。その後ろには、姉のアマユラ、兄たち――フユミチ、モトナリ、モカヅチ、そしてフサナギの姿があった。
「おーい、早よ来ぃやー! ええ場所知ってんねん。」
と、フシミが京都訛りで手を振れば、モリタカも「調子に乗るなよ」とぼやく。
けれどそのとき。
アミツキは“気配”を感じた。
道がゆるやかに川辺へと下っていく。
そこで、夢が――脳裏にぶわっと、広がった。
次の瞬間だった。
『かわ……ダメ……おちる!』
声ではなかった。けれど確かに、伝わった。
父と母の心に。
イツキとアマユラの魂の中に――。
「……いま、声が……?」
「アミツキ……?」
アマユラが目を見開いた瞬間―――。
「うわぁーい! あっち、いきたーい!!」
フサナギが急に駆け出した。
川辺に向かって、転がるように走る。
「待てってば! あぶない!」
フユミチが反射的に追いかけ――その足が、ぬかるみに取られた。
「――ッ!」
彼の身体が、川の方へと傾いた瞬間。
「ミチ!」
父イハナギが、風のように動いた。
藍の髪が風を裂き、腕が一直線に伸び、間一髪、フユミチの袖を掴んだ。
川辺にぎりぎり倒れ込んだ二人を、全員が息をのんで見つめた。
静まり返る時間の中、アマカギが、ぽつりと呟いた。
「アミツキ……この子が、教えてくれたのだわ。言葉ではない、でも……心に、響いたの。」
イハナギも、息を整えながら言った。
「たしかに……あの瞬間、魂が訴えかけられたようだった。“落ちる”と、はっきり……。」
イツキは驚きと感動を隠せず、そっとアミツキを抱き上げた。
「よく気づいたな……よく伝えてくれた。おまえ、本当にすごい子だね。」
アミツキは不安そうに「クゥ」と鳴き、でも、イツキの腕の中でようやく安心したように目を細めた。
それを見て、アマユラもそっと微笑む。
「アミツキ……あなた、世界の声を聴いたのね。そして、自分の声も届けた……。」
家族の誰もが、その奇跡に感謝した。
そして、幼い妹の中に芽生えた力を、心から誇りに思った。
夜が降りると、城の中庭はしんと静まり返った。神木の梢が風にそよぎ、葉の影が水面に揺れる。
その前に、並んで座る二つの影。
アマカギは、朱金の外套を羽織りながら、そっと隣の男に目を向けた。
「……あの子、やはり“視えて”いたのね。」
「……ああ。偶然にしては出来すぎている。あの瞬間、たしかに……わたしの中にも届いた。」
イハナギの声は低く、穏やかで――けれど確かな驚きと畏れがにじんでいた。
アマカギは少し笑って、天を仰ぐ。
「“アミツキ”……“天を観る芽”と、名付けたけれど……
まさか本当に、空の先を視る子になるとは思わなかったわね。」
「まだ言葉も話さぬというのにな。魂の声を、こちらに響かせてくるとは……。」
イハナギはゆっくりと手を重ねる。その手には、今日小さな命を救った温もりがまだ残っていた。
「驚いた?」
「……ああ。正直に言えば、少し、怖くもある。」
彼の声には、親としての戸惑いが滲んでいた。けれどすぐに、その奥にある確かな誇りが、言葉になる。
「だが同時に、嬉しくもある。あの小さな体の中に……これほどの力が、宿っているとはな。」
アマカギは微笑みながら、彼の肩にもたれた。
「私たちの子よ。あなたの静けさと、私の炎と……。それだけではない。あの子は、きっとあの子自身の光を持っている。」
「……光、か。」
イハナギは神木を見上げた。
「今日のあの瞬間、あの子は世界とつながっていた。
まだ言葉も名もしゃべらぬうちから、自分の声を外へ向けて発せられる子が、どれほどいるだろう。」
アマカギはそっと、アミツキの額に触れる仕草を思い出す。
イハナギは、深く息を吐いた。
「これからも、あの子は様々なものを“視る”だろう。喜びも、痛みも、まだこの世界にない何かも。」
「だからこそ、守ってあげなければね。この命が揺らがぬように……温かいものの中で育つように。」
二人の間に、沈黙が落ちた。
けれどそれは、重たいものではない。静かな祈りのような、やさしい沈黙だった。
風が吹き、神木の葉が光に揺れる。
それはまるで、幼い命の未来を祝福するように。
「アミツキ……。」
アマカギが、そっとその名を呼んだ。イハナギの口元に、少し笑みが浮かぶ。
「どこまでも、見守りましょう。私たちの子を。世界がどれほど大きくても、あの子が独りにないように、帰る場所がここにあると忘れないように。」
その夜、星は澄み、神木はほのかに光っていた。
幼い命が踏み出した第一歩に、親たちのまなざしが、やさしく寄り添っていた。