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第15話 言の葉・心の葉

 夢を見た。


 夜の帳の下、淡く光る川辺。


 風に揺れる木立の奥、幼い足音が跳ねるように駆けていく。


 ――フサナギ。


 そして、その背を追う兄、フユミチ。


 アミツキの白金のまつげが震えた。


 夢の中で、川の土手が崩れる。


 フユミチの姿が一瞬空に舞って――。


 「……っ!」


 はっと目覚めた時、アミツキはまだ息を詰めていた。


 体は小さく、言葉もまだ話せないけれど、胸の奥が、魂ごと揺れるような不安に包まれていた。


 (こわい……でも、なんとかしなきゃ……)




 次の日。空は雲ひとつない快晴だった。


 「今日は家族みんなでお散歩に行きましょうね。アミツキ。」


 母アマカギの手にだかれ、アミツキはこくんと小さくうなずいた。


 父イハナギが静かに微笑む。その後ろには、姉のアマユラ、兄たち――フユミチ、モトナリ、モカヅチ、そしてフサナギの姿があった。


 「おーい、早よ来ぃやー! ええ場所知ってんねん。」


 と、フシミが京都訛りで手を振れば、モリタカも「調子に乗るなよ」とぼやく。


 けれどそのとき。


 アミツキは“気配”を感じた。


 道がゆるやかに川辺へと下っていく。


 そこで、夢が――脳裏にぶわっと、広がった。


 次の瞬間だった。


『かわ……ダメ……おちる!』


 声ではなかった。けれど確かに、伝わった。


 父と母の心に。


 イツキとアマユラの魂の中に――。


 「……いま、声が……?」


 「アミツキ……?」


 アマユラが目を見開いた瞬間―――。


 「うわぁーい! あっち、いきたーい!!」


 フサナギが急に駆け出した。


 川辺に向かって、転がるように走る。


 「待てってば! あぶない!」


 フユミチが反射的に追いかけ――その足が、ぬかるみに取られた。


 「――ッ!」


 彼の身体が、川の方へと傾いた瞬間。


 「ミチ!」


 父イハナギが、風のように動いた。


 藍の髪が風を裂き、腕が一直線に伸び、間一髪、フユミチの袖を掴んだ。


 川辺にぎりぎり倒れ込んだ二人を、全員が息をのんで見つめた。


 静まり返る時間の中、アマカギが、ぽつりと呟いた。


「アミツキ……この子が、教えてくれたのだわ。言葉ではない、でも……心に、響いたの。」


 イハナギも、息を整えながら言った。


 「たしかに……あの瞬間、魂が訴えかけられたようだった。“落ちる”と、はっきり……。」


 イツキは驚きと感動を隠せず、そっとアミツキを抱き上げた。


 「よく気づいたな……よく伝えてくれた。おまえ、本当にすごい子だね。」


 アミツキは不安そうに「クゥ」と鳴き、でも、イツキの腕の中でようやく安心したように目を細めた。


 それを見て、アマユラもそっと微笑む。


 「アミツキ……あなた、世界の声を聴いたのね。そして、自分の声も届けた……。」


 家族の誰もが、その奇跡に感謝した。


 そして、幼い妹の中に芽生えた力を、心から誇りに思った。




 夜が降りると、城の中庭はしんと静まり返った。神木の梢が風にそよぎ、葉の影が水面に揺れる。


 その前に、並んで座る二つの影。


 アマカギは、朱金の外套を羽織りながら、そっと隣の男に目を向けた。


 「……あの子、やはり“視えて”いたのね。」


 「……ああ。偶然にしては出来すぎている。あの瞬間、たしかに……わたしの中にも届いた。」


 イハナギの声は低く、穏やかで――けれど確かな驚きと畏れがにじんでいた。


 アマカギは少し笑って、天を仰ぐ。


 「“アミツキ”……“天を観る芽”と、名付けたけれど……

まさか本当に、空の先を視る子になるとは思わなかったわね。」


 「まだ言葉も話さぬというのにな。魂の声を、こちらに響かせてくるとは……。」


 イハナギはゆっくりと手を重ねる。その手には、今日小さな命を救った温もりがまだ残っていた。


 「驚いた?」


 「……ああ。正直に言えば、少し、怖くもある。」


 彼の声には、親としての戸惑いが滲んでいた。けれどすぐに、その奥にある確かな誇りが、言葉になる。


「だが同時に、嬉しくもある。あの小さな体の中に……これほどの力が、宿っているとはな。」


 アマカギは微笑みながら、彼の肩にもたれた。


 「私たちの子よ。あなたの静けさと、私の炎と……。それだけではない。あの子は、きっとあの子自身の光を持っている。」


 「……光、か。」


 イハナギは神木を見上げた。


 「今日のあの瞬間、あの子は世界とつながっていた。

まだ言葉も名もしゃべらぬうちから、自分の声を外へ向けて発せられる子が、どれほどいるだろう。」


 アマカギはそっと、アミツキの額に触れる仕草を思い出す。


 イハナギは、深く息を吐いた。


 「これからも、あの子は様々なものを“視る”だろう。喜びも、痛みも、まだこの世界にない何かも。」


 「だからこそ、守ってあげなければね。この命が揺らがぬように……温かいものの中で育つように。」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 けれどそれは、重たいものではない。静かな祈りのような、やさしい沈黙だった。


 風が吹き、神木の葉が光に揺れる。


 それはまるで、幼い命の未来を祝福するように。


 「アミツキ……。」


 アマカギが、そっとその名を呼んだ。イハナギの口元に、少し笑みが浮かぶ。


 「どこまでも、見守りましょう。私たちの子を。世界がどれほど大きくても、あの子が独りにないように、帰る場所がここにあると忘れないように。」


 その夜、星は澄み、神木はほのかに光っていた。


 幼い命が踏み出した第一歩に、親たちのまなざしが、やさしく寄り添っていた。

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