第2章-1:
ある晴れた放課後。
都あずさは、校門の前で立ち止まり、少し困ったように振り返った。
「……鸞さん、ホンマに帰りご一緒してもよろしいの?」
「ええやん別に。うち、あずささんと喋りながら歩くの、けっこう好きやで」
「……そない言われると、なんや照れてしまいますわ」
というわけで、二人は並んで駅まで歩くことになった。
鸞はリュックを背負いながら、軽やかな足取りで歩いている。
その横であずさは、品のある落ち着いた歩き方。
まるでテンポの違う楽器が合奏しているような光景だった。
途中、駅前の商店街に差しかかったとき。
「あっ、この和菓子屋さん、よう見てたけど入ったことおへんのやわ」
「入ってみる? うち、甘いもんには目がないんや!」
「それ、うちもどす」
ふたりでくすくす笑いながら、店の前で足を止めたときだった。
「Excuse me! Girls!」
どこか片言の英語が飛んできた。
ふと振り向くと、大学生風の若い男たちが2人、ニヤニヤしながら立っていた。
「Are you...外国人? Or maybe... half?」
鸞の金髪碧眼を見て、完全にターゲットロックオン状態。
「Whoa, beautiful girls! You wanna go cafe with us?」
あずさは一瞬で固まった。
肩をすくめ、目が泳いでいる。
「え、えと……あの……」
だが、その横で鸞はまったく動じていなかった。
むしろ、口元にニヤリと笑みを浮かべる。
「Excuse me, gentlemen. We're on our way to a tea ceremony, and we don't really have time to entertain strangers. Especially those who think English pick-up lines still work in 2020s.」
一瞬にして空気が変わる。
男たちは目を丸くし、言葉に詰まった。
「W-What...?」
鸞はさらに畳みかける。
「Also, my friend here may not look it, but she's fluent in kicking people who can't take a hint.」
「Wait what!? No, I-I didn't mean—」
そして。
「Bon, si vous ne comprenez pas l'anglais, je peux continuer en français. Vous voulez que je parle plus lentement, ou vous partez tout de suite?」
(訳:英語が理解できないなら、フランス語で続けましょうか? ゆっくり話しましょうか、それともすぐに立ち去りますか?)
男たち、顔面蒼白。
「S-Sorry!」
「No offense! Just compliment!」
と言い残し、そそくさと去っていった。
残されたあずさは、放心状態で立ち尽くしていた。
「……い、今の……何語ですの?」
「英語と、フランス語ちょっと。まあ、混ぜて脅かしただけやけど」
「鸞さん……すごすぎますわ」
「いやー、昔から海外でもナンパ多かったし、対応慣れしてるんや」
「うち、完全に凍りついてました……」
鸞は、そんなあずさの肩をぽんと軽く叩く。
「大丈夫や。うちがついとる限り、あずささんにナンパなんてさせへん」
「……させへん、ではなく、されへん、やと思います」
「おお、さすがや! 日本語の先生になれるで!」
「笑いごとやありません……」
それでも、あずさの頬は少しだけ緩んでいた。
ナンパという非日常の出来事の中で、鸞の存在は確かに頼もしかった。
そして何より、そんな彼女と一緒に歩ける自分に、ほんの少しだけ誇らしさを感じていたのだった。
――ふたりの距離は、今日もまた一歩、近づいた。
英語チャレンジ、どうどす?
翌日の昼休み。
あずさは、自分でも驚くくらいの勢いで英語の参考書を開いていた。
机の上には英語の文法ノート、赤ペン、例文カード。
その姿は、まるで受験生のようだった。
「うおっ、なんや真剣やなあ」
鸞がパンを片手に近づいてくる。
「どしたん? 英語の宿題でも出たんか?」
「いえ……あの……昨日のこと、ちょっと悔しくて」
あずさは視線を下げ、照れくさそうに笑った。
「うちは、鸞さんに助けてもらってばかり……。
少しくらい、自分の言葉で……返せたらええのになぁって」
鸞は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに口元をほころばせた。
「そっか……ええやん、めっちゃええやん!」
ぱちぱちとパンを置いて拍手する。
「うちが付き合ったる! 英語、教えたるで!」
「え、ええんですか?」
「もちろんや! なんでも聞いてや!」
その瞬間から、即席の“鸞塾”が開講された。
「まずはな、基本のあいさつからやな……」
「『How do you do?』」
「うん、発音はええ感じやけど、普段の会話ではあんま使わへん。ちょっと古臭いねん」
「そ、そうなんどすか!?」
「今は『Hi』とか『Nice to meet you』が普通や。な?」
「なるほど……。
じゃあ『おかわりください』は……」
「えっ、それ食事中のやつやん!? どこで使うつもりなん?」
「いつか“どすえカフェ”で使えるかもと……」
「それ、伏線回収早すぎるやろ!!」
クラスメイトたちはそのやりとりに耳をそばだてていた。
「……なんか授業より勉強になるかも」
「というか、これ録音したいレベルでおもろい」
深雪は腕を組んで溜息をつく。
「二人がいるだけで教室の空気が漫才会場になるの、どうにかならないのかしら……」
だが、その中でもあずさの目は真剣だった。
真面目に、丁寧に、一生懸命に。
そして、それを見守る鸞の表情もまた、優しく温かかった。
「じゃあ、次はちょっとした会話に挑戦してみよか?」
「は、はい!」
「Hi, my name is Ran. What’s your name?」
「……My name is Azusa. I’m…… happy to meet you.」
「Good! めっちゃええやん!」
「Thank you……」
そこだけは、きちんと発音していた。
放課後。
ふたりは校門を出た後も、しばらく英語の練習を続けていた。
「How are you?」
「I'm fine, thank you. And you?」
「I'm good.」
「ぐっど……」
あずさは小さく笑った。
「なんや、ちょっと楽しいどす」
「やろ?」
ふたりの影が、夕陽に伸びていく。
少しずつ、でも確かに、言葉が橋をかけていくのを感じながら――。
――京ことばと関西弁と英語。
三つの音が、今日も仲良く響いていた。