夏休みまであとわずか。
教室の空気は緩やかに弛緩し、生徒たちはどこかそわそわし始めていた。
だが、そんな中で一人、教室の隅で俯いている生徒がいた。
彼女の名前は、三谷ことの。
大人しく、成績も真面目で、先生の評価も高い。だが、人と話すのが苦手で、昼休みはいつも机で本を読んで過ごしていた。
「ことのちゃん、最近元気ないね」
「またクラスで孤立してるのかな……」
「でもあの子、自分から話しかけてこないし……」
そんな“善意の距離”が、彼女をより静かにしていた。
そんなある日。
ことのが何気なく開いた教科書の間から、一枚のメモが落ちた。
そこには、柔らかな筆跡で、こう書かれていた。
『本、いつも読んではりますな。何を読んではるんどす?』
――都あずさ
驚きと戸惑い。
ことのは周囲を見渡したが、誰もこちらを見ていない。
ただ、少し離れた場所で、あずさがいつも通りの微笑みを浮かべていた。
翌日、ことのはおそるおそる、短い返事を書いた。
『詩集です。言葉が静かで、心が落ち着くから。』
そして教科書の中に忍ばせ、机に戻した。
その次の日も、また次の日も、ふたりの“交換日記”は続いた。
声にはならない、けれど確かに通じ合う文字と言葉。
数日後の昼休み、あずさがことのに直接声をかけた。
「こんにちは、ことのさん。……今日は、直接お話してもよろしいどすか?」
「……はい」
その返事は、小さな声だったが、震えはなかった。
そのまま、ふたりは静かに並んでお弁当を広げた。
教室のあちこちで、驚きの視線が向けられる。
だが、鸞だけは、当たり前のように笑っていた。
「やっとやな。あずささん、やっぱりすごいわ」
「いえ、うちはただ……ことのさんの言葉に触れて、もっと知りたくなっただけどす」
「ほんま、それが“届いた”んやろな」
その日の放課後。
ことのが教室を出ようとしたとき、誰かが小さく声をかけた。
「……あの、本って好きなんですか?」
それは、今まで一度も話したことのないクラスメイトだった。
「うん、好き。詩とか、短い物語とか」
「……おすすめ、今度教えてもらっていいですか?」
「……うん」
初めての“会話”。
誰かの言葉に救われ、今度は自分の言葉で誰かとつながる。
その変化のきっかけを作ったのは、あずさだった。
だが、隣に寄り添い、背中を押したのは、鸞だった。
ふたりの間にある“特別”な関係は、決して排他的ではない。
むしろ、それは小さな光となって、周囲へと届いていく。
――言葉は力になる。
京ことばも、関西弁も、英語も、そして詩の一節も。
そのどれもが、誰かの背中をそっと押せるものなのだ。
夏休みを前に、教室の空気は、いつになくやわらかだった。