「夜のスイミングスクール……?」
あずさは、受付に名前を書き込むと、貸し切り状態の小さなプールに足を踏み入れた。
そこは、近所にある市民プールの一角に設けられた、初心者向け夜間レッスンコースだった。
「はい、都さんですね。では今日は、水慣れと浮く練習から始めましょう」
インストラクターは、穏やかな笑みを浮かべた女性だった。
緊張でこわばったあずさの表情を和らげるように、ゆっくりと説明してくれる。
「……よろしくお願いします、どす」
プールに入る。
昼の学校のプールとは違い、天井から灯るやわらかい光が水面を静かに照らしていた。
水の音も静かで、周囲には誰もいない。
だからこそ、心の声がよく聞こえる。
(うち……ほんまに泳げるようになりたいんどす)
水に顔をつける。
最初はやはり恐怖が勝るが、インストラクターがそっと背を支えてくれる。
「ゆっくり、息を吐きながら顔を水につけて……そう、上手ですよ」
何度も、何度も繰り返す。
心臓の鼓動は早いけれど、そのぶん全身に「生きている」という実感が流れる。
数日後。
「はい、今日はビート板を使ってのバタ足に挑戦しましょう」
「はい……!」
腕を伸ばし、ビート板にしがみつく。
あずさは、静かに深呼吸をしたあと、足を水面に蹴り上げた。
パシャ……パシャ……
リズムよく、水を蹴る音が夜のプールに響く。
「……うち、前に進んでる……!」
インストラクターが嬉しそうに拍手を送る。
「都さん、すごい進歩です! 最初と比べて、ずいぶんリラックスしてますね」
「おおきに……嬉しいどす……」
授業が終わったあと。
水着のままベンチに腰かけ、髪をタオルで拭きながらあずさはふと空を見上げた。
窓越しに見える夜空には、星がいくつか瞬いている。
「鸞さんと、並んで泳げるようになりたいんどす」
誰にともなく、ぽつりとつぶやいた。
それは願いであり、誓いだった。
さらに数日後。
「今日は、ビート板を外して、自由に浮いてみましょうか」
「ええ……!? 無理かもしれへん……」
「無理だと思ったら、それは“まだ”ってことですよ。挑戦してみましょう」
あずさは、震える手で水に入る。
インストラクターの声が遠くで響く。
「ゆっくり、足を後ろに伸ばして、手はまっすぐ前に……そう、そのまま……!」
ふわり、と身体が水に浮く。
(……浮いてる)
驚きとともに、心がふわりと軽くなった。
(泳ぐって、こんな感じなんどすな……)
その夜、あずさは目を閉じて、そっと思った。
(次の授業では……鸞さんの隣で、ちゃんと泳げたらええな)
静かなプールの中、ひとりの少女が、確かに前へと進んでいた。
水の音だけが、やさしく、その成長を祝っていた。