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第15話 :夜のひとり練習

「夜のスイミングスクール……?」


あずさは、受付に名前を書き込むと、貸し切り状態の小さなプールに足を踏み入れた。


そこは、近所にある市民プールの一角に設けられた、初心者向け夜間レッスンコースだった。


「はい、都さんですね。では今日は、水慣れと浮く練習から始めましょう」


インストラクターは、穏やかな笑みを浮かべた女性だった。

緊張でこわばったあずさの表情を和らげるように、ゆっくりと説明してくれる。


「……よろしくお願いします、どす」


プールに入る。

昼の学校のプールとは違い、天井から灯るやわらかい光が水面を静かに照らしていた。


水の音も静かで、周囲には誰もいない。

だからこそ、心の声がよく聞こえる。


(うち……ほんまに泳げるようになりたいんどす)


水に顔をつける。

最初はやはり恐怖が勝るが、インストラクターがそっと背を支えてくれる。


「ゆっくり、息を吐きながら顔を水につけて……そう、上手ですよ」


何度も、何度も繰り返す。

心臓の鼓動は早いけれど、そのぶん全身に「生きている」という実感が流れる。


数日後。


「はい、今日はビート板を使ってのバタ足に挑戦しましょう」

「はい……!」


腕を伸ばし、ビート板にしがみつく。

あずさは、静かに深呼吸をしたあと、足を水面に蹴り上げた。


パシャ……パシャ……


リズムよく、水を蹴る音が夜のプールに響く。


「……うち、前に進んでる……!」


インストラクターが嬉しそうに拍手を送る。


「都さん、すごい進歩です! 最初と比べて、ずいぶんリラックスしてますね」


「おおきに……嬉しいどす……」


授業が終わったあと。


水着のままベンチに腰かけ、髪をタオルで拭きながらあずさはふと空を見上げた。

窓越しに見える夜空には、星がいくつか瞬いている。


「鸞さんと、並んで泳げるようになりたいんどす」


誰にともなく、ぽつりとつぶやいた。

それは願いであり、誓いだった。


さらに数日後。


「今日は、ビート板を外して、自由に浮いてみましょうか」


「ええ……!? 無理かもしれへん……」


「無理だと思ったら、それは“まだ”ってことですよ。挑戦してみましょう」


あずさは、震える手で水に入る。


インストラクターの声が遠くで響く。


「ゆっくり、足を後ろに伸ばして、手はまっすぐ前に……そう、そのまま……!」


ふわり、と身体が水に浮く。


(……浮いてる)


驚きとともに、心がふわりと軽くなった。


(泳ぐって、こんな感じなんどすな……)


その夜、あずさは目を閉じて、そっと思った。


(次の授業では……鸞さんの隣で、ちゃんと泳げたらええな)


静かなプールの中、ひとりの少女が、確かに前へと進んでいた。

水の音だけが、やさしく、その成長を祝っていた。


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