──ギシ……ギシィ。
廊下の床板が、誰かの足音を受けて軋む。
湊と柏原はすでに二階に到着していた。館の西廊下──かつて藤堂の遺体が吊るされていた部屋の扉は、今は静かに閉ざされている。
「さっきの足音、こっちからだったはずだ」
湊が小声で言いながら、扉に手をかけた。
ギイ……と控えめな音を立てて開いた中には、以前と変わらぬ荒れた空間が広がっていた。
だが、机の位置が微妙にずれている。ベッドの上には、埃のない箇所がひとつ──まるで誰かが座っていたように。
「ここに……誰かがいた」
柏原がベッドを確認しながら呟く。
湊は机の上にある紙に気づく。拾い上げると、そこには血のような赤インクで一文が記されていた。
『もう一人、来てる。』
「誰かが私たち以外に……?」
湊が紙を折りたたみ、胸ポケットに入れる。
二人は視線を交わすと、さらに廊下の奥へと進む。
そこには、今まで気づかなかった古い扉があった。
重たそうな鉄製の取っ手。湊が試しに押すと、がちりと固く閉ざされている。
「鍵がかかってるな……開かない」
柏原が足元を見下ろすと、そこには薄い埃の中に、つま先が内向きの靴跡が残っていた。
「……この中に、誰かがいる」
湊は扉に耳を寄せる。中からは何の音も聞こえない。ただ、微かに、鉄の匂いと湿気が鼻先を掠める。
「戻ろう。無理に開けるには、まだタイミングが早すぎる」
広間に戻ると、空気が変わっていた。
理沙は沙耶の隣に座り、赤坂は壁際に立って腕を組んでいた。神村詩音は椅子に腰掛け、何かを記している。
「湊さん……」
沙耶が、おずおずと差し出したものを湊が受け取る。紙人形だった。
簡素な折り目と、丸く描かれた目。懐かしさすら覚えるそれは、どこかで見覚えがある。
「それ……椅子の下に落ちてたの。この折り方、なんだか昔見た気がする……でも、誰にだったのか……」
「裏に……イニシャル。S……かすれて読みにくいが、S.S.か?」
柏原がすぐに反応する。
「まさか……こんなもの、誰がここに置いたの?」
赤坂が舌打ちする。
「おいおい、また幽霊じみた話かよ。死人が動き出すってのか?」
「現実かどうかはともかく、“誰かがそれを演出している”ことが問題」
湊はそう言いながら、神村の方へ視線を向ける。
「詩音さん、あなたはこの人形に見覚えは?」
神村はしばらく見つめた後、小さく微笑んだ。
「昔、そういうのを折る人はいたわね。誰だったかしら」
「とぼけるには不自然な間があった」
湊の声に、詩音の笑みが一瞬だけ消える。
そのとき、沙耶が声を上げた。
「さっき……“聞こえた”んです。声が。私の名前を、呼んだんです。……どこかで聞いたような声で……でも、誰だったのか……」
広間に緊張が走る。
柏原が低く訊く。
「聞き間違いじゃないの?」
「違います。……“まだ覚えてる?”って、そう言ったんです」
「詩音さん──あなた、“誰か”を庇ってますね?」
湊の問いに、神村はほんのわずか眉を動かした。
「なぜそう思うの?」
「あなたは、最初から“演出”という言葉を恐れずに使っていた。一般人が殺人現場で“舞台”という語彙を連発するのは不自然です」
「でも、それはただの表現よ」
「表現なら、もっと日常的な言葉を使うはずだ。“幕が上がる”“脚本通り”……演劇か犯罪を、間近で見た者の言葉だ」
柏原が鋭く切り込む。
「公安の資料にあるの。“神楽鏡夜”って名前。犯罪演出を行う匿名の存在。あなたはそれを知ってるか?」
神村は答えなかった。
理沙が、少し緊張した声で言う。
「私、さっき神村さんが誰かと小声で話しているのを聞いた気がします。玄関の近くで──“まだ時間じゃない”って」
「時間じゃない、か……“演出家”なら、次の“場面”の開始を見計らってるかもしれないな」
湊は神村に再び視線を向けた。
「詩音さん、“あなた”は観客ではない。“舞台の演者”──もしくは“副演出家”の立場にある」
その言葉に、詩音はゆっくりと微笑む。
「なら、あなたは“探偵役”として、何を暴くの?」
「舞台の構造です。“見えない照明”と“配置された動線”、そして“すでに配役を終えた人間”が何を演じていたのかを」
詩音は立ち上がり、窓の方を振り返った。
「……最初の犠牲者が出たのは、21時頃」
「次の幕が近いということか?」
「ええ。ほら、聞こえるでしょ」
その言葉の直後──廊下の奥から、ふたたび足音。
──コツ、コツ……。
湊と柏原は再び階段を上がり、二階西廊下の奥へと戻っていた。
先ほど見つけた鍵のかかった部屋──そこにはまだ、誰かの気配が残っているようだった。
先ほど見つけた鍵のかかった部屋──そこにはまだ、誰かの気配が残っているようだった。
「やはり、中の空気が違うな……」
柏原が囁く。扉の前に立つと、微かな埃の匂いと金属の油のような臭いが混じっていた。
湊がバールを手に、扉の蝶番をこじ開ける。
ギギ……と音を立てて、扉が開いた。
中は埃と古びた空気に満ちていた。
奥にはいくつかの古椅子が円形に配置されていたが、すべてに埃が積もっており、長らく使用されていない様子。
その中央に置かれていたのは、低い台座と、破れかけた赤い布。
その脇に、何かの札の一部が落ちていた。
かすれて文字が読めないが、最初の一文字が「S」であるようにも見える。
「……これは“誰か”の……名札?」
柏原が札を拾い上げる。
「でも、裏には何も書かれてない。“途中で破られた”か、“偽装された”か……」
湊は舞台全体を見回しながら呟いた。
「……ここも、舞台の一部。でも、“何かを途中でやめた”ような痕跡があるな」
「……幕が上がるはずだった場所?」
理沙が声を震わせる。湊と柏原が告げた内容に、全員が静まり返る。
「演出家の“計画”はあった。でも、それは途中で止まってる気がする」
湊はそう断言する。神村は腕を組んだまま目を閉じていた。
「それが事実なら……まだ“本番”ではないのね」
そのとき、沙耶が駆け寄ってきた。
「そういえば湊さん、さっきこれ拾ったの」
沙耶が手にしていたのは、簡素に折られた紙のオリガミだった。
湊がそれを受け取り、しばらく見つめる。
「……誰がこんなものを……?」
「この折り方、なんだか昔見た気がする……でも、誰にだったかまでは……」
湊がオリガミの裏を確認する。
「……文字がある。S……かすれて読みにくいが、何かの頭文字か……?」
理沙がそっと沙耶の肩を抱いた。
「怖くない? 大丈夫?」
「……大丈夫……。ただ……思い出しそうな気がして……」
沙耶が、ぽつりと呟いた。
「 “戻ったら、外に出ないで”って……そんな風に言われた気がする……。気がするだけかもしれないけど……誰だったんだろう……」
神村が静かに呟く。
「この“舞台”は、まだ始まってもいないのよ」
その瞬間──
──ギィ……
玄関扉の蝶番が、誰にも触れられていないのに音を立てた。
湊は懐中電灯を構える。
「……また“舞台”が、動き出した」
誰かが、“入ってくる”ような音。
柏原が即座に拳銃を抜いた。
「来た……」
湊は懐中電灯を構えたまま、一歩前に出た。
廊下の外からの音に、広間の誰もが動けずにいた。
神村が窓際に立ち、雨が降り出した外を見つめながら、ぽつりと呟く。
「この舞台に、“嘘”も“真実”もない。ただ、“意志”があるだけ」
「その意志を見極めるのが、探偵の役目だ」
扉の奥、足音がふたたび近づく。
──次の一歩は、“真実”か、それとも“演出”か。
観客たちは、息を飲んでその音を待っていた。