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【第7話 鍵と影】


──夜は、ますます深まっていた。



館の空気は重く、湿気を帯びた静寂が廊下にまとわりついている。広間に戻った湊たちは、それぞれが無言のまま椅子に腰掛けていた。


誰もが、先ほどの「折り紙」と「声」の件について言葉にできずにいた。


理沙がそっと、沙耶の手を握る。震える指先は、まだ現実を受け入れきれていない。


沙耶は何度も、何かを思い出そうとするように眉をひそめ、時折誰かの名を呼びかけるように小さく口を動かしていた。


「……さっきの、紙人形。誰が置いたのかしら」


羽鳥がぽつりと呟くと、沈黙が波紋のように広がった。全員の視線が交錯する。


「可能性としては三つ。“我々の中の誰か”、外部の侵入者、もしくは……」


湊が言葉を濁す。

だが、残された選択肢のうち“幽霊”を真剣に否定できる者はいなかった。

館の不気味さが、論理をかき乱す。


「誰かが、館にいるのは確実よ」


柏原が言いながら、館の見取り図を広げる。

床に描かれた簡素な図面には、数か所の“未確認エリア”が赤線で示されていた。


「見取り図に載っていない、隠し部屋があるかもしれないわ。これまでの“異常”が、それを示唆している」


誰もが黙り込んだまま、その赤線を見つめていた。


「東棟の書庫、地下の備蓄室、それと……北側の階段裏手。誰も、まだ確認していない」


柏原が図面を指しながら言った。

部屋の明かりが弱く、手元の地図はわずかに揺れて見える。

誰も口を開かず、室内の空気が静かに淀んでいく。


「……でも、誰かが一人でそこに行くのは危険すぎる……」


理沙の声に、柏原が頷く。


「そう。だから、今度からは必ずペアで行動する」




時刻は21時半頃に差し掛かっていた。

だが、不安が勝る今、誰も休もうとは言わない。

むしろ、眠れば夢の中であの“笑い声”や“紙人形”に再び出会ってしまう──そんな恐怖があった。



「湊、どこから回る?」

「北の階段裏に行こう。最も見取り図が曖昧だ」


湊と柏原、赤坂と羽鳥、理沙と沙耶の三組に分かれ、未探索エリアの調査が始まった。足音だけが、廊下の奥へと吸い込まれていく。


湊と柏原は、懐中電灯を手に北側の回廊を進んだ。

朽ちた壁の間を抜けるたびに、冷たい風が背中を撫でる。

壁の隙間から虫の鳴き声が漏れ、外の風とともに何か得体の知れない“音”も混じっていた。


「……ここ、あまり通りたくないな」

「“通ってはいけない”と、誰かが思わせたい場所、かもね」


柏原が冷静に答える。


やがて、目的の扉に辿り着いた。

古びた取っ手は錆びついていたが、鍵はかかっていない。湊がゆっくりと扉に手をかけた。

扉の先にあったのは、物置のような小部屋だった。

だが、異様な光景がそこに広がっていた。




壁一面に貼り付けられた紙──どれも手書きの走り書きで、「選ばれた者」「扉」「声」「帰れない」「観客」「仮面」などの断片的な言葉が乱雑に綴られていた。



「……まるで、狂気のメモだな」


湊が一歩踏み出すと、床がぎしりと軋む。


その足元には、一枚だけ他と違う質感の紙が落ちていた。

拾い上げると、そこには黒いインクでこう書かれていた。

《舞台は壊れていく。それでも、誰かは踊らなければならない》


「……神村の文体に似ているわ」


柏原が低く呟いた。


湊は周囲を見回した。だが、人気はない。ただ紙と埃の匂い、そしてかすかに焦げたような臭いが鼻腔を掠める。


壁の一角には古びた木製の仮面も掛けられていた。

表面は割れ、片方の目が穿たれている。

その異様な造形が、この空間の異常性を際立たせていた。


「誰が……これを……」


柏原が仮面を外そうと手を伸ばしたとき、不意に天井裏から“コトリ”と物が落ちるような音がした。

二人は一瞬、息を止めた。

しかし、音はそれきりだった。


「……一度、戻ろう」


湊の言葉に、柏原も無言で頷いた。




*      *      *



広間から別れて行動を開始した赤坂と羽鳥は、地下室の前に立っていた。


階段は古く、踏むたびにきしむ音を立てる。壁には蜘蛛の巣が張り、空気は次第に湿り気を帯びていく。


「……地下に続く階段ってだけで、ホラーだな」


赤坂が軽口を叩いたが、声には緊張がにじんでいた。

羽鳥もまた無言で階段を下りていく。暗闇の中、懐中電灯の光だけが彼らの足元を照らす。


「電気……通ってるわけないか。こんな場所に何があるってんだよ。こんな腐った館で」


ぼやきながらも、赤坂は前へ進む。

やがて、階段の終わりには重々しい鉄扉が姿を現した。


無骨な構造、錆びた金具。明らかに“閉じる”ことを前提とした造りだった。


「おい……これ、鍵が……」


赤坂が取っ手に手をかけた瞬間、扉の向こうから“カタン”と物音が響いた。

二人の動きが止まる。


「中に……誰かいる」


羽鳥が囁くように言った。息を呑む音が空気に溶ける。




扉は微かに揺れたが、開く様子はない。赤坂が力を込めて再び取っ手を引こうとした──



「やめて。無理に開けるのは、今はやめましょう」


羽鳥の言葉に赤坂が顔をしかめる。


「おいおい、ここまで来て……」


「ここは罠の可能性が高いわ。音だけで中身を確認するのが限界よ。無理に動けば、逆に仕掛けを起動させるかもしれない」


その説得に、赤坂は不満を残しながらも、しぶしぶ手を引いた。




広間に戻ってきたのは、それから二十分後だった。



すでに理沙と沙耶も探索を終えて戻っており、三組は再び一堂に会していた。

理沙は沙耶の肩を抱いていたが、その表情からは安堵よりも疲労の色が濃く浮かんでいた。


「何か……あったか?」


湊の問いに、羽鳥が先に答える。


「地下の備蓄室前。誰かがいた気配がした。でも、鍵がかかっていた。中に人がいたような音がしたけど……姿は見えなかった」


「……開けようとは思わなかったのか?」


赤坂が言いかけたが、羽鳥が遮るように続ける。


「無理にこじ開けて、罠でもあったら危険よ。それに、外から閉じられているということは、“中にいる者”が自分で開ける可能性がある」

「つまり、“待っている”ということね」


柏原の言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。神村詩音は無言で椅子に座り、手帳を開いたまま目を伏せている。


「私たちが誰かを探していると思っていたけど……向こうも、私たちの動きを待ってるのかもしれない」


湊の言葉に、誰も返事をしなかった。

そのとき、沙耶がぽつりと呟いた。


「……さっき、また聞こえたんです。“声”が」


全員が息を呑む。羽鳥が眉をひそめた。


「どういうこと?」

「“また会えるよ”って……誰かが……そう言った気がするんです。私の名前を呼んだあとに」




沙耶の言葉に、場の空気が再び静まりかけたそのとき──



「“また会えるよ”、ですか……」


静かな声がその沈黙を破った。神村詩音だった。


「奇妙な言葉ですね。でも、なぜか、“演目の幕間”を思わせます」


彼女は手帳を閉じ、沙耶の方へ微笑みを向けた。


「……怖かったでしょう、沙耶ちゃん。でも、あなたは強い子よ」




その口調は穏やかで、優しさすら感じさせたが──



湊はふと、違和感を覚えた。


(“優しさ”が整いすぎている。……この人、本当に動揺しているのか?)

彼女の微笑みの奥に張りついた仮面めいた何かが、湊の警戒心をそっと揺さぶった。

沙耶は、不安げに湊の方を見た。


「誰の声だった?」


湊が問いかける。

沙耶は首を横に振った。


「わからない。でも……あったかい声でした。懐かしいような、悲しいような……」


理沙が、彼女の肩を優しく抱く。


「大丈夫よ。誰かが見てるかもしれないけど、私たちも、ここにいるから。絶対に、守るからね」

「ありがとう、理沙さん……」


その会話に、湊はそっと目を閉じた。




(“声”──幻聴とは思えない。むしろ、誰かが意図的に聞かせている……あの紙人形と同じだ)



「柏原。この館の構造、やはり変だ。見取り図にない通路が存在する可能性は?」


柏原は静かに頷いた。


「あるわ。壁の厚み、階段の位置。微妙な違和感は感じてた。特に、北棟の廊下。……隠し扉のようなものがあってもおかしくない」


「となると、“外部から侵入している”のではなく、“最初から潜んでいる”可能性もあるな」


「ええ。私も同感よ。少なくとも、誰かが私たちの行動を監視しながら“演出”している」


「まるで、観客席のない舞台の上に立たされてるような感覚だな……」


湊はゆっくりと立ち上がった。


「今夜は、誰かが仕掛けてくる。だから……誰も眠らない方がいい」


その言葉に、全員が無言で頷いた。




──夜は、まだ終わっていない。






そして、この舞台も──まだ“次の幕”を待っている。




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