──夜は、ますます深まっていた。
館の空気は重く、湿気を帯びた静寂が廊下にまとわりついている。広間に戻った湊たちは、それぞれが無言のまま椅子に腰掛けていた。
誰もが、先ほどの「折り紙」と「声」の件について言葉にできずにいた。
理沙がそっと、沙耶の手を握る。震える指先は、まだ現実を受け入れきれていない。
沙耶は何度も、何かを思い出そうとするように眉をひそめ、時折誰かの名を呼びかけるように小さく口を動かしていた。
「……さっきの、紙人形。誰が置いたのかしら」
羽鳥がぽつりと呟くと、沈黙が波紋のように広がった。全員の視線が交錯する。
「可能性としては三つ。“我々の中の誰か”、外部の侵入者、もしくは……」
湊が言葉を濁す。
だが、残された選択肢のうち“幽霊”を真剣に否定できる者はいなかった。
館の不気味さが、論理をかき乱す。
「誰かが、館にいるのは確実よ」
柏原が言いながら、館の見取り図を広げる。
床に描かれた簡素な図面には、数か所の“未確認エリア”が赤線で示されていた。
「見取り図に載っていない、隠し部屋があるかもしれないわ。これまでの“異常”が、それを示唆している」
誰もが黙り込んだまま、その赤線を見つめていた。
「東棟の書庫、地下の備蓄室、それと……北側の階段裏手。誰も、まだ確認していない」
柏原が図面を指しながら言った。
部屋の明かりが弱く、手元の地図はわずかに揺れて見える。
誰も口を開かず、室内の空気が静かに淀んでいく。
「……でも、誰かが一人でそこに行くのは危険すぎる……」
理沙の声に、柏原が頷く。
「そう。だから、今度からは必ずペアで行動する」
時刻は21時半頃に差し掛かっていた。
だが、不安が勝る今、誰も休もうとは言わない。
むしろ、眠れば夢の中であの“笑い声”や“紙人形”に再び出会ってしまう──そんな恐怖があった。
「湊、どこから回る?」
「北の階段裏に行こう。最も見取り図が曖昧だ」
湊と柏原、赤坂と羽鳥、理沙と沙耶の三組に分かれ、未探索エリアの調査が始まった。足音だけが、廊下の奥へと吸い込まれていく。
湊と柏原は、懐中電灯を手に北側の回廊を進んだ。
朽ちた壁の間を抜けるたびに、冷たい風が背中を撫でる。
壁の隙間から虫の鳴き声が漏れ、外の風とともに何か得体の知れない“音”も混じっていた。
「……ここ、あまり通りたくないな」
「“通ってはいけない”と、誰かが思わせたい場所、かもね」
柏原が冷静に答える。
やがて、目的の扉に辿り着いた。
古びた取っ手は錆びついていたが、鍵はかかっていない。湊がゆっくりと扉に手をかけた。
扉の先にあったのは、物置のような小部屋だった。
だが、異様な光景がそこに広がっていた。
壁一面に貼り付けられた紙──どれも手書きの走り書きで、「選ばれた者」「扉」「声」「帰れない」「観客」「仮面」などの断片的な言葉が乱雑に綴られていた。
「……まるで、狂気のメモだな」
湊が一歩踏み出すと、床がぎしりと軋む。
その足元には、一枚だけ他と違う質感の紙が落ちていた。
拾い上げると、そこには黒いインクでこう書かれていた。
《舞台は壊れていく。それでも、誰かは踊らなければならない》
「……神村の文体に似ているわ」
柏原が低く呟いた。
湊は周囲を見回した。だが、人気はない。ただ紙と埃の匂い、そしてかすかに焦げたような臭いが鼻腔を掠める。
壁の一角には古びた木製の仮面も掛けられていた。
表面は割れ、片方の目が穿たれている。
その異様な造形が、この空間の異常性を際立たせていた。
「誰が……これを……」
柏原が仮面を外そうと手を伸ばしたとき、不意に天井裏から“コトリ”と物が落ちるような音がした。
二人は一瞬、息を止めた。
しかし、音はそれきりだった。
「……一度、戻ろう」
湊の言葉に、柏原も無言で頷いた。
* * *
広間から別れて行動を開始した赤坂と羽鳥は、地下室の前に立っていた。
階段は古く、踏むたびにきしむ音を立てる。壁には蜘蛛の巣が張り、空気は次第に湿り気を帯びていく。
「……地下に続く階段ってだけで、ホラーだな」
赤坂が軽口を叩いたが、声には緊張がにじんでいた。
羽鳥もまた無言で階段を下りていく。暗闇の中、懐中電灯の光だけが彼らの足元を照らす。
「電気……通ってるわけないか。こんな場所に何があるってんだよ。こんな腐った館で」
ぼやきながらも、赤坂は前へ進む。
やがて、階段の終わりには重々しい鉄扉が姿を現した。
無骨な構造、錆びた金具。明らかに“閉じる”ことを前提とした造りだった。
「おい……これ、鍵が……」
赤坂が取っ手に手をかけた瞬間、扉の向こうから“カタン”と物音が響いた。
二人の動きが止まる。
「中に……誰かいる」
羽鳥が囁くように言った。息を呑む音が空気に溶ける。
扉は微かに揺れたが、開く様子はない。赤坂が力を込めて再び取っ手を引こうとした──
「やめて。無理に開けるのは、今はやめましょう」
羽鳥の言葉に赤坂が顔をしかめる。
「おいおい、ここまで来て……」
「ここは罠の可能性が高いわ。音だけで中身を確認するのが限界よ。無理に動けば、逆に仕掛けを起動させるかもしれない」
その説得に、赤坂は不満を残しながらも、しぶしぶ手を引いた。
広間に戻ってきたのは、それから二十分後だった。
すでに理沙と沙耶も探索を終えて戻っており、三組は再び一堂に会していた。
理沙は沙耶の肩を抱いていたが、その表情からは安堵よりも疲労の色が濃く浮かんでいた。
「何か……あったか?」
湊の問いに、羽鳥が先に答える。
「地下の備蓄室前。誰かがいた気配がした。でも、鍵がかかっていた。中に人がいたような音がしたけど……姿は見えなかった」
「……開けようとは思わなかったのか?」
赤坂が言いかけたが、羽鳥が遮るように続ける。
「無理にこじ開けて、罠でもあったら危険よ。それに、外から閉じられているということは、“中にいる者”が自分で開ける可能性がある」
「つまり、“待っている”ということね」
柏原の言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。神村詩音は無言で椅子に座り、手帳を開いたまま目を伏せている。
「私たちが誰かを探していると思っていたけど……向こうも、私たちの動きを待ってるのかもしれない」
湊の言葉に、誰も返事をしなかった。
そのとき、沙耶がぽつりと呟いた。
「……さっき、また聞こえたんです。“声”が」
全員が息を呑む。羽鳥が眉をひそめた。
「どういうこと?」
「“また会えるよ”って……誰かが……そう言った気がするんです。私の名前を呼んだあとに」
沙耶の言葉に、場の空気が再び静まりかけたそのとき──
「“また会えるよ”、ですか……」
静かな声がその沈黙を破った。神村詩音だった。
「奇妙な言葉ですね。でも、なぜか、“演目の幕間”を思わせます」
彼女は手帳を閉じ、沙耶の方へ微笑みを向けた。
「……怖かったでしょう、沙耶ちゃん。でも、あなたは強い子よ」
その口調は穏やかで、優しさすら感じさせたが──
湊はふと、違和感を覚えた。
(“優しさ”が整いすぎている。……この人、本当に動揺しているのか?)
彼女の微笑みの奥に張りついた仮面めいた何かが、湊の警戒心をそっと揺さぶった。
沙耶は、不安げに湊の方を見た。
「誰の声だった?」
湊が問いかける。
沙耶は首を横に振った。
「わからない。でも……あったかい声でした。懐かしいような、悲しいような……」
理沙が、彼女の肩を優しく抱く。
「大丈夫よ。誰かが見てるかもしれないけど、私たちも、ここにいるから。絶対に、守るからね」
「ありがとう、理沙さん……」
その会話に、湊はそっと目を閉じた。
(“声”──幻聴とは思えない。むしろ、誰かが意図的に聞かせている……あの紙人形と同じだ)
「柏原。この館の構造、やはり変だ。見取り図にない通路が存在する可能性は?」
柏原は静かに頷いた。
「あるわ。壁の厚み、階段の位置。微妙な違和感は感じてた。特に、北棟の廊下。……隠し扉のようなものがあってもおかしくない」
「となると、“外部から侵入している”のではなく、“最初から潜んでいる”可能性もあるな」
「ええ。私も同感よ。少なくとも、誰かが私たちの行動を監視しながら“演出”している」
「まるで、観客席のない舞台の上に立たされてるような感覚だな……」
湊はゆっくりと立ち上がった。
「今夜は、誰かが仕掛けてくる。だから……誰も眠らない方がいい」
その言葉に、全員が無言で頷いた。
──夜は、まだ終わっていない。
そして、この舞台も──まだ“次の幕”を待っている。