──突き刺すような怒声と、続けざまに破裂音が響いた。
「うわああああああっ!!」
それは悲鳴ではなく、警告だった。
湊と柏原は同時に駆け出す。
声の方角──東側の廊下の先。昼間、物音がしたと報告のあった区域だ。
理沙が沙耶を羽鳥に託し、遅れて二人の後を追った。
重苦しい空気の中、三人は同時に角を曲がった。
そして、そこにあった“光景”に息を飲む。
──森崎悠斗が、柱にもたれかかるように立ったまま動かない。
その額、ど真ん中に、矢──いや、ボルトが突き立っていた。
血は静かに額から滴り落ち、床に小さな斑点を描いていた。
「……これは、ボウガン……?」
柏原が、素早く懐中電灯を天井に向ける。
梁の裏に、無骨な金属の先端が覗いていた。
「罠よ……ピアノ線か何かを踏んで発動した」
足元を見れば、腰の位置ほどの高さに張られた極細のワイヤーが、今なお振動している。
その横に──一枚のカード。
湊が拾い上げ、埃を拭う。
──【0】
「……まさか、これも“見立て”なのか?」
理沙が言葉を呑む。
柏原がうなずいた。
「無警戒に歩を進め、破滅へ至る。……まさに“愚者”」
そのとき、廊下の奥から赤坂典孝が駆け戻ってくる。
「っくそっ……森崎のやつ……止めたのによ……!」
赤坂は顔を歪め、呻くように言った。
「“大丈夫っすよ~”とか言ってさ……一歩先に踏み出した瞬間、ピアノ線に引っかかって──そしたら……っ」
湊は赤坂の肩に手を置く。
「君は後ろにいた?」
「ああ。用心してた。けど……!」
森崎の足元には、血に染まった靴と、浮かんだ片足。
まるで「崖の一歩手前で跳ねた」──そんな錯覚すら抱かせる死に様だった。
「完全に……“舞台”だな」
湊の呟きが、静寂の廊下に響いた。
「まったくよ……なんで、俺が止めたのに……!」
赤坂は壁にもたれ、額の汗を拭った。
その目は怒りよりも、悔しさと後悔に満ちていた。
「“何も起きねーって! 怖がりすぎっすよ!”って笑ってんだよ、あいつ。……ほんの数秒前まで、普通だったのに……」
湊は再び、森崎の遺体を見やった。
矢は額の中心に突き刺さり、わずかなズレもない。
まるで“的”に向かって撃たれたような正確さ。
「これは……“愚者”の再現だな」
柏原が頷く。
「愚者──The Fool。タロットの大アルカナ、番号は“0”。
無垢、自由、警戒心のなさ。そして、崖を踏み外す者」
「その象徴が……この姿ってことですか?」
理沙の問いに、湊は静かに答えた。
「森崎は“何も起こらない”と信じて疑わなかった。
その無警戒さこそが、“愚者”にふさわしかったというわけだ」
沙耶が、ぎゅっと理沙の袖を掴む。
「じゃあ……次も、誰かが……?」
誰も返せなかった。
湊は屈み、足元のピアノ線を慎重に観察する。
「……ただの“事故”じゃない。これは……明確な殺意だ」
「しかも“罠”。犯人は森崎をこの廊下に誘導することを計算していた」
柏原が言葉を継ぐ。
「赤坂さんを“生かす”ことも含めて」
赤坂が顔を上げる。
「……証人にされるため、か?」
湊はゆっくりと頷いた。
「君の証言があって初めて、“森崎が愚かだった”という“演出”が完成する」
──見立て殺人。
単に殺すだけでなく、“象徴に仕立て上げる”手法。
「これは、見せつけている。演出家のように、我々に──」
柏原が呟く。
「……“観ろ”というわけね」
その言葉に、場の空気が一段、冷たく沈んだ。
愚者は崖を見ずに笑いながら進んだ。
だが今、次の犠牲者が“誰”になるのか──誰にも笑えなかった。
広間に戻った一同は、言葉を失っていた。
神村詩音が椅子に腰を下ろし、震える沙耶を優しく抱き寄せる。
羽鳥綾子は冷えきった紅茶を前に、じっと虚空を見つめていた。
「……二人目、か」
柏原が低く呟いた。
藤堂隼人に続いて、森崎悠斗──
どちらも、タロットの大アルカナを模した“見立て”で命を奪われた。
「演出家がいるとしたら……その“脚本”通りに動いてるってこと?」
理沙が不安げに尋ねる。
湊は黙って頷く。
「それも、我々に“観客”であることを強いてくる構造だ」
赤坂が拳を握りしめたまま、低く唸るように言った。
「だったら……黙って観てるわけにはいかねえよな。
次に誰が死ぬのかなんて、ふざけた芝居に付き合えるか」
湊は視線を落とし、短く息を吐いた。
「まず確認したい。“藤堂の死が発見されてから、森崎が殺されるまで”の全員の動き。
誰が、どこで、誰と一緒にいたか──明確にしておきたい」
柏原がすかさず補足する。
「これは犯人捜しじゃない。まだ断定はできない。
でも、行動経路の記録は重要になるわ。“次”が起きたとき、それが生きる」
神村が頷いた。
「私も協力します」
その表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
だが、それが“整いすぎている”ことに、理沙は気づいていた。
「……こんなこと、もう起きてほしくない」
理沙が呟くと、沙耶がそっとその袖を掴んだ。
「……みんなで……生きて帰ろうよ」
湊は、その言葉に静かにうなずいた。
「犯人は、“次”を想定している。
ならば──俺たちは、“その脚本を壊す”つもりで、動くしかない」
赤坂が苦笑した。
「上等だ。“舞台”ってんなら、こっちも“舞台を降ろしてやる”までよ」
だがその最中──
カツ、カツ……と、微かな音が天井の上から響いた。
まるで、次の幕の準備が、もう始まっているかのように。
「……私の番ね」
神村詩音が穏やかな口調で口を開いた。
「藤堂さんの遺体が見つかったとき、私は広間にいました。
沙耶ちゃんと、理沙さんと一緒に。
それから、赤坂さんと森崎さんが出て行ったのを見送って……私は、そのまま広間を離れていません」
沙耶が、小さくうなずいた。
「神村さん……そばにいてくれたの。手、ずっと握ってくれて……」
その言葉に、理沙も同意するように続ける。
「……はい。私もずっと一緒にいました。神村さんと沙耶ちゃんと三人で」
柏原が沈黙のまま手帳に書き込んでいく。
羽鳥が椅子に寄りかかりながら言った。
「私も同様ね。広間を出たのは、森崎くんの叫び声を聞いたあと」
湊と柏原が、視線を交わす。
赤坂は拳を握ったまま、低く呻いた。
「くそ……止めたのによ。あいつ、“どうせ何もないっすよ~”とか言いながら、能天気に前に出やがって……俺が警戒して立ち止まったのに、勝手に踏み込んで……!」
「……ピアノ線に触れて、トラップが作動した。
その一瞬でボウガンが発射されて、即死。矢は脳幹を貫通していたわ」
柏原の言葉に、場の空気がさらに重く沈んだ。
「愚者……“無知ゆえに滅びる者”。その象徴を、まさかこんな形で再現するとは」
湊の声に、神村がわずかに目を伏せた。
「……演出としては、あまりにも残酷ですね。
でも、森崎さんが“愚かだった”と断じるのは……少し、悲しいです」
誰も、すぐには返せなかった。
柏原が静かに呟く。
「……演出家の狙いがどこにあるにせよ、我々が冷静でなければ次も防げない。
だから、こうして一人ひとり、確認していくしかないのよ」
湊は、神村の整った横顔を見つめた。
その表情は、どこまでも“善意の協力者”だった。
(だが──彼女は、常に“観察している”側の目をしている)
それが、錯覚か確信か。
湊には、まだわからなかった。
広間の中央に、館の簡易見取り図が置かれた。
柏原がペンで床板を叩きながら口を開く。
「今後、無用な単独行動は禁止する。行動は必ず二人一組、常に相互確認。
物音や異常があっても、一人では絶対に動かないで」
理沙が不安げに手を挙げた。
「でも……誰と誰が組むんですか? 全員が信頼できるとは……正直、思えないです……」
その言葉に、一瞬、空気が硬直した。
神村が小さく微笑みながら口を開く。
「ならば、少なくとも“目撃者”と“未行動者”が組む形で整えるべきかと。
たとえば……私はずっと広間にいたので、移動経験のある柏原さんとご一緒しましょうか」
柏原がすぐに首を振る。
「私は情報の集約と判断を担う。基本的に湊と動くわ」
神村は「そうですか」と穏やかにうなずいた。
赤坂が腕を組み、低く呟く。
「誰が犯人かはわからねぇ。でも、“罠”を仕掛けた奴がいるのは確かだ。
だったら今、この中に──俺たちを“舞台の上”に乗せてる奴がいるってことだよな?」
羽鳥が口を挟む。
「でも、あれだけの罠を、短時間で、しかも人目を盗んで設置できるの? 現実的じゃない」
「設置じゃなくて──“あらかじめ仕込まれていた”のかもしれない」
湊の言葉に、全員が顔を上げた。
「藤堂も、森崎も、“発見された場所”が絶妙だった。
導線上、誰かが必ず見つける位置。演出としては、あまりに完成度が高すぎる」
「つまり……?」
「俺たちは、誰かの“視線の中”にいる。ずっと」
その言葉に、沙耶が震えた。
「……ずっと、誰かに見られてるって……やだ……」
理沙が隣で寄り添い、背中をさする。
柏原は図面の端に丸を描きながら言った。
「この館には、まだ我々が踏み入れていないエリアがいくつかある。
隠し部屋、あるいは天井裏や床下──そこが“観客席”になっている可能性もある」
誰かが、どこかから、舞台を“見ている”。
湊はふと視線を上げた。
神村詩音は沈黙したまま、見取り図を眺めていた。
感情を一切含まぬ、整った横顔で。
(……その目の先にあるのは、本当に“地図”か?)
疑念が、わずかに心をかすめた──
だが、証拠はまだ、どこにもなかった。
──ギィ……ギシ……
誰もが息を潜めた。
それは廊下の奥から聞こえた、床板が軋むような音だった。
何かが、ゆっくりと重みをかけながら、こちらへ近づいてくるかのように。
柏原が即座に立ち上がる。
「来るな、全員、動かないで」
赤坂が椅子から腰を浮かせかけるが、湊が手で制する。
「音は、進んでいない。……“聴かせてる”だけだ」
羽鳥が静かに頷いた。
「罠じゃない。これは“演出”。存在の誇示」
広間の空気が、一層重くなる。
理沙が、沙耶を抱き寄せる腕に力を込めた。
神村は表情を変えずに、音のする方角を見据えていた。
そして──音は、唐突に止んだ。
広間に残されたのは、耳鳴りのような静寂だけ。
「……あれは何?」
沙耶の震える声に、誰もすぐには答えられなかった。
湊がゆっくりと立ち上がり、懐中電灯を手に取る。
「確認する。柏原、来てくれ」
「了解」
赤坂が口を開く。
「俺も──」
「いや、ここは残ってくれ。全員が動けば、何かあったとき守りきれない」
しばしの沈黙ののち、赤坂は不服そうにうなずいた。
湊と柏原は、光を手に静かに広間を出る。
誰かが後をつけてくるような、微かな錯覚。
廊下の先、誰もいない闇。
仕掛けられた罠の名残が、どこかにまだ残っている気配。
(誰かが、見ている。どこかで)
その感覚は、確かにあった。だが、視線の主は見えない。
──館そのものが、意志を持って人間を監視しているかのように。
「湊」
柏原の声に、湊は振り返る。
「気づいているか?」
「……ああ。犯人は、俺たちの動きを“正確に把握していた”。
森崎が一人になる“瞬間”を見計らって、仕掛けた」
「その“視点”は、どこから来てる?」
湊は答えなかった。
ただ、廊下の奥を、深く静かに見つめた。
その先に、何かがいる──
だが、今はまだ、姿を現すつもりはないらしい。
広間の灯りが、わずかに揺らいだ。
まるで“誰か”が、今この瞬間も、舞台袖からこちらを見ているかのように。
──第二の殺人は、静かに終幕を迎えた。
だがそれは、“第三幕”の開始を告げる鐘の音でもあった。