──沈黙が、広間を支配していた。
森崎悠斗の死。その余韻が、場の空気に深く沈殿している。
誰もが目を伏せ、言葉を飲み込んでいた。
まるで不用意な声が、次の死を招くかのように。
椅子に座る神村詩音が、整った姿勢のまま、ぽつりと呟いた。
「……どうして、こんなことに」
誰かの責任を問うわけでも、感情を吐露するわけでもない。
それは、問いの形をした“観察”に近かった。
「何がどうなってんだよ……っ」
赤坂典孝が苛立ちを隠さず唸り、椅子から立ち上がる。
「誰がやった? 何のために? まさか、また死ぬんじゃねえだろうな?」
柏原が口を開くより早く、羽鳥綾子が凛とした声で遮った。
「落ち着いて。怒鳴っても、状況は好転しないわ」
「じゃあ何か手があるのか? ただ黙って死ぬのを待てってのかよ……っ」
赤坂の怒りが、一気に噴き出した。
理沙が身をすくめ、沙耶がびくりと肩を震わせる。
湊はゆっくりと立ち、赤坂の前に進み出る。
「誰かを責めても無意味だ。
今、必要なのは、“何が起きたか”を把握することだ」
その冷静な声音に、赤坂は肩を落とすように息を吐いた。
だが、そのまま低く唸るように呟く。
「森崎は……確かに、軽い奴だった。
でも、あんな最期……誰が、どんなつもりで“仕組んだ”ってんだ」
湊は、応えずに広間の隅へと視線を向けた。
神村詩音は、静かに膝の上で手を組んでいた。
その視線の奥にあるのは、悲しみか、共感か、それとも──
“観客としての冷徹さ”なのか。
誰の胸にも、ひとつの不安が膨らんでいく。
この中に、“もう一人の演者”がいるのではないかと──
「今さら“確認”なんて、意味ないんじゃねえのか?」
赤坂典孝がうんざりしたように吐き捨てた。
「誰と誰がいたとか、もう全部話しただろ。だったら──」
「……だったら、誰かを疑っていいってことですか?」
理沙の鋭い声に、赤坂は口をつぐんだ。
「確認はした。でも、“それだけ”で終わっていいの?」
柏原が、卓上の簡易見取り図を見下ろしながら言った。
「罠の仕組みは? いつ設置された? 誰がどのルートを通ってどこへ向かったのか──
断片がそろっても、“繋がっていない”」
「……証拠もなしに、疑念だけ膨らませても意味はない」
羽鳥が、冷静な口調で応じる。
「問題は、“あれほどの罠が、短時間で設置できるのか”ってこと。
そして、“それを見られずに済んだ状況”があったかどうか」
湊は頷いた。
「俺たちが各所を回っていた間、誰にも気づかれず罠を仕掛ける手段があったとすれば──
犯人は、“あらかじめ準備していた”可能性が高い」
神村詩音が、静かに口を開いた。
「ならば、“その設置場所に詳しい人物”ということになりますね」
「この館の構造を知っていた人物か、もしくは──」
柏原の言葉に、羽鳥がかぶせるように続けた。
「館そのものが、最初から“舞台装置”として整えられていた、という可能性もあるわね」
空気が冷え込む。
沙耶が、小さく理沙の袖を引いた。
「……罠が、もともとあったってこと?」
理沙が静かにうなずく。
「もしそうなら……この事件そのものが、“偶発的”なんかじゃない。
最初から、“誰かの演出”だったってことになる」
湊は目を伏せ、深く息をついた。
「“誰かが計画し、我々をここに招き、そして次々と演じさせている”。
そう考えるのが、一番自然だ」
誰かの喉が、ごくりと鳴った。
この館全体が、最初から“罠”だった──
その可能性を前に、誰も軽口を叩けなくなっていた。
「でも、そうだとしても……やっぱり妙じゃないか?」
沈黙を破ったのは、赤坂だった。
腕を組んだまま、低い声で言葉を続ける。
「森崎が死ぬ前に、あの廊下──東側のあの曲がり角は、俺も一度見に行ってる。
あんなピアノ線も、ボウガンも、見当たらなかった。
あそこまで目立たねえとは思えねえ。……つまり、“後から仕掛けられた”ってことになる」
一同の視線が集まる。
「でも、それって──」
理沙が、思わず声を上げた。
「つまり、誰かが“森崎を殺すために”、あの直前に罠を仕掛けたって……」
「そうだ。だからおかしいんだ」
赤坂が力強くうなずく。
「そんな暇があったか? 誰が、いつ? どこから? 誰にも見られずに、あんな仕掛けを……?」
羽鳥が鋭く指摘する。
「赤坂さん。あなたはその場にいた。“誰かが仕掛けているところ”を見ていないのなら──
それこそ、“もともと仕込まれていた”んじゃないの?」
「いや、そうじゃねえ」
赤坂は首を振る。
「断言はできねえが……ピアノ線が張られてたら、さすがに目に入ってたはずなんだよ。
俺は用心してたし、目も光らせてた」
柏原が腕を組んで考え込む。
「……じゃあ、こういう可能性は?
ピアノ線は“途中で引き出された”。
もしくは、“その場に設置されていたが、何かで隠されていた”」
「あるいは、ボウガンのトリガーだけを仕込んでおいて、
発動の瞬間だけ“誰かが遠隔で操作した”可能性もある」
湊が補足する。
神村詩音が、穏やかな声で問いかける。
「“遠隔で”? それはどうやって?」
柏原が静かに答える。
「ワイヤーの先を館の別室に通してあれば可能よ。
その“別室”が、誰にも確認されていない場所だったなら──操作も視線の外で済む」
その言葉に、場の空気が再び冷たく沈む。
「……じゃあ、犯人はその仕掛けの“位置”を知っていて、
かつ、誰にも気づかれず、その場を離れていた人物──」
理沙のつぶやきに、誰かが息をのんだ。
つまり、疑いは“計画性”と“知識”を備えた者へと向かう。
その矛先が、今、誰に向いているのか──
誰も、口には出さなかった。
「だが……そう思い込むのも、危険だ」
湊が、沈黙を切り裂くように言った。
「“罠を仕掛ける時間がなかった”という前提そのものが、
俺たちをある方向に誘導する“演出”だったとしたら──」
柏原が顔を上げる。
湊は、見取り図を指差したまま言葉を続ける。
「“今そこにあったはずのものが、直前にはなかった”。
それ自体が事実だとしても──
それを“どう解釈させるか”は、犯人の手の内かもしれない」
広間の空気がわずかにざわついた。
「なるほど」
神村詩音がゆっくりと頷いた。
手帳を閉じ、組んだ指先を口元に添えたまま、言う。
「確かに、その可能性はあるわ。
でも……そんなふうに全ての推理を“誘導”だと疑っていたら、
私たちは一歩も前に進めないんじゃないかしら?」
その口調は穏やかだったが、
どこか試すような棘があった。
湊は目を伏せ、そして再び顔を上げた。
「ああ。……だからこそ、“一度立ち止まって振り返る”必要があるんだ」
一人一人の視線が、湊に向く。
「焦って次の推理に飛びつけば、また同じ罠にかかる。
俺たちは、今まさに“考えさせられている”。
森崎の死、あの装置、皆のアリバイ。
一見、全てが整っているように見えて──
“何かが、整いすぎている”」
柏原が、低く呟いた。
「……それも、“演出”の一部、か」
「だとすれば、“逆に不自然なほど整っている”場所、
あるいは、逆に“誰も気づいていない隙”にこそ、
本当の仕掛けが隠れているのかもしれない」
湊の視線が広間の壁へと向けられる。
古びた装飾、色褪せたカーテン、そして──見取り図に描かれていない構造。
「……見直そう。改めて、“この館そのもの”を」
言葉に、誰も返事はしなかった。
だがそれでも、彼の意志だけは、確かに場を揺らしていた。
「柏原、その図をもう一度」
湊が促すと、柏原はすでに広げられていた見取り図の上に指を滑らせた。
「ここね」
彼女が指し示したのは、東側廊下の突き当たり。
森崎が倒れていた現場の少し手前にある“物置部屋”だった。
「図面上は物置。でも、扉は鍵がかかっていた。開かなかったわ」
「なら、その部屋が“罠の発射装置”の操作場所だった可能性がある。
誰にも目撃されず、即座に離脱できる。しかも、誰も中を確認していない」
赤坂が低く唸る。
「……じゃあ、俺が背中を向けたほんの一瞬で、そこにいた誰かが罠を作動させたってのか?
そんな芸当ができる奴なんて……」
羽鳥が図面に目を落としながら続ける。
「でも、その程度の部屋で済むのかしら。
もっと根本的に、“この建物そのもの”に仕掛けがあると考えるべきじゃない?」
湊が頷いた。
「俺も、同じことを思っていた」
彼の指が、図面の中央階段裏をなぞる。
「ここ。明らかに不自然な空間が抜けてる。
階段下の壁は分厚く、反響も妙だった。
つまり……“隠し部屋”が存在する可能性がある」
理沙が小さく息を呑む。
「それって……犯人がそこに隠れてるかもってこと?」
「もしくは、そこが“操作拠点”だったのかもしれない。
監視カメラやワイヤーの張力を調整する仕組み──
この建物全体が、最初から“舞台装置”だとするなら、そこが制御室だ」
神村詩音が、ふと俯いて静かに呟いた。
「だとすれば、私たちはその“舞台”の上で、今も演じさせられているのかもしれないわね」
その声音はあくまで穏やかだったが、
微かに“楽しんでいる”ようにも聞こえた。
柏原が懐中電灯を持ち直し、言った。
「すぐに調査を。これ以上、犠牲者は出せない」
湊は深く頷いた。
「行こう。怪しいのはこの二箇所──物置部屋と階段裏。
慎重に、だ」
「準備はいいか。赤坂、羽鳥、柏原──」
湊の問いかけに、三人は頷いた。
それぞれが懐中電灯や簡易ナイフを手にしている。
「残る皆は、この広間から動かないでくれ」
湊の視線が理沙と沙耶に向けられる。
「扉を施錠し、誰が来ても絶対に開けないこと。……合言葉を決めておこう」
柏原が即座に提案する。
「“操り人形”でどう? この館にはふさわしいわ」
「了解。扉越しに“操り人形”と言った者だけに開けてくれ」
理沙が頷き、沙耶の肩に手を置いた。
「こわい……湊さん、本当に大丈夫?」
沙耶の声は震えていた。
「大丈夫だ。すぐに戻る」
湊はやさしく、けれど強い意志を込めて答えた。
神村詩音が、静かに口を開く。
「……気をつけて。
その先には、きっと“見たくない真実”が待っているかもしれないわ」
その言葉に、一瞬だけ空気がひやりとした。
理沙が、ふと詩音を振り返る。
「……それって、どういう意味?」
詩音は微笑んだ。
「ただの予感よ。……でも、私の勘は当たるの。昔から」
意味深な言葉を残しながら、詩音は再び椅子に腰を下ろす。
その眼差しは遠く、どこか舞台袖から舞台中央を見つめる演出家のようにも見えた。
湊は深く息を吸い込み、懐中電灯のスイッチを入れた。
ギィ、と扉が開く。
闇が口を開けて、四人を呑み込もうとしている。
「行こう」
湊の声が静かに響く。
赤坂は先頭に立ち、羽鳥と柏原が続く。
湊は最後に広間を振り返った。
理沙と沙耶、そして神村詩音──
三人の表情を一瞥してから、彼は静かに扉を閉じた。
*
館の廊下は、まるで息を潜めて彼らを見下ろしているかのようだった。
歩くたび、床板のきしみがやけに大きく聞こえる。
「物置部屋はこの先よ」
柏原が先導しながら囁くように言う。
「罠の作動地点に一番近いのはそこだ。まず確認する」
湊の返答は簡潔だった。
“次の仕掛け”が、既にそこにあるのかもしれない──
その予感が、誰の胸にもあった。
彼らの知らぬところで、
何かが、音もなく動き始めている。