階段裏の空間──
そこは、これまで誰の目にも触れなかった“異物”だった。
「この壁の奥に、空間があるかもしれないんだな?」
赤坂典孝が低く唸る。
湊は頷き、懐中電灯の光を壁に沿わせながら言った。
「音の反響が不自然だ。内壁の構造が妙に分厚い。……普通じゃない」
「確かに」
柏原旦陽が指先で壁をなぞる。
「表面のパネル、微妙に段差がある。これ……貼り直されてるわ。新しい木材よ」
羽鳥綾子もまた目を細め、壁の継ぎ目に視線を落とす。
「封じられた痕跡……ね」
柏原が腰のツールナイフを取り出し、ゆっくりと刃を差し込む。
ごり、と乾いた音がして、木の一部が浮いた。
瞬間、四人の間に緊張が走る。
「下がれ」
赤坂が反射的に柏原の肩を引いた。
「罠かもしれん」
だが、何も起きなかった。
代わりに、どこか遠くで“何か”が抜け落ちたような空気の変化があった。
……じわり、と漏れ出してくる、こもった熱気。
長年閉ざされた場所特有の、淀んだ匂いが鼻をついた。
「……これ、扉じゃないわね」
柏原が眉をひそめる。
「打ちつけただけの“板”。中に入れないようにしてた……あるいは、“出られないように”」
湊が懐中電灯を構え直す。
「開けるぞ。慎重に」
赤坂が工具を取り出し、板の縁に差し込む。
ひとつ、またひとつと、釘が外されていくたびに、音が廊下に響く。
最後の板が外されたとき、黒い穴が現れた。
だがその奥は、懐中電灯の光さえも、吸い込まれていくようだった。
「……中が、全然見えねえ」
赤坂が呻く。
「空気が、違う。まるで……何年も時間が止まってたみたいだ」
羽鳥が目を細めた。
「空間があるのは確か。でも、ただの物置じゃなさそうね」
湊が一歩踏み出す。
「誰か、先に確認してくれ。俺が照らす」
柏原が頷き、懐中電灯を高く掲げながら、身をかがめて開口部を覗き込んだ。
そして──言葉を失った。
柏原旦陽が、そっと口を開いた。
「……部屋、じゃない」
その言葉に、三人が顔を見合わせた。
「どういう意味だ?」
赤坂が眉をひそめる。
「空間はある。でも、整ってない。壁が……石? いや、コンクリか……。造りが、古すぎる」
柏原が光を奥へ滑らせる。
「人が住むために設計された部屋じゃない。もっと原始的……“防空壕”みたいな」
「地下室ってことか?」
湊が訊くと、柏原は首を振った。
「……断言はできない。でも、階段がある。下に降りてる。斜めに、深く」
羽鳥が小さく息を呑んだ。
「誰にも気づかれずに、こんな構造を……? 本当に、最初から“舞台”だったのね」
湊が、ゆっくりと開口部の縁に手をかける。
冷たい木材の感触が、じわりと指先に染み込んできた。
「俺が先に入る。何かあれば声を上げる」
「待て」
赤坂が前に出た。
「こういうのは、力仕事の得意な奴から行くもんだろ。俺が先に行く。湊はその後に続け」
湊は一瞬だけ迷ったが、すぐに頷いた。
「分かった。……柏原、羽鳥、後ろから照らしてくれ」
四人は順に身をかがめ、開口部をくぐっていく。
中は、まるで地下墓地のような空間だった。
壁面の一部には、鉄骨のような柱が打ち込まれており、表面は煤けたように黒ずんでいた。
地面はむき出しの土で、足を踏み入れるたびに、湿った音が鳴る。
「……妙な作りだな。建築の素人仕事にしちゃ、手が込んでる」
赤坂が壁を叩きながら呟く。
「何に使われてたのかしら……。こんな構造、聞いたことない」
羽鳥の声も、やや震えていた。
「“舞台の裏”にしては、陰湿すぎるな」
柏原が後ろを振り返り、湊に小声で囁いた。
「まるで……誰かを“閉じ込めていた”ような空気よ」
湊の足が止まる。
そのとき、奥から微かな反響音が聞こえた。
──コツ……コツ……。
何かが、硬い床を打つ音。
「……足音?」
羽鳥が立ち止まる。
「違う」
柏原が即座に否定した。
「人の歩調じゃない。もっと……一定。機械的な……」
湊が手を挙げ、全員に停止を指示する。
懐中電灯の光が揺れた。
そして、奥の闇の中に──
“何かの影”が、ほんの一瞬だけ、横切った。
「今、見えた……?」
湊が、すぐ前を歩く赤坂に問いかけた。
「……ああ。何かが動いた」
赤坂が低く唸る。
「人影……かどうかは分からねえが、確かに“いた”」
「でも、この空間に誰かいるはずが──」
羽鳥が言いかけて、声を止めた。
否定しきれなかった。
この館において、“いるはずがない”という言葉は、もはや信用できない。
「行くしかないわね」
柏原が一歩前に出る。
「足音の消えた方向……慎重に」
四人は足音を殺しながら、闇の奥へと進んでいく。
地下空間は迷路のように複雑だった。
複数の通路が枝分かれし、低い天井と閉塞感が不快な圧力を生む。
「この構造……明らかに普通じゃないわ。
防空壕でもなければ、倉庫でもない」
柏原が天井を照らしながら呟く。
「古い……だけじゃない。目的が不明すぎる」
羽鳥の声が、かすかに震えていた。
そのとき、赤坂が突然立ち止まった。
「……おい、あれ、何だ」
彼が照らす先、地面に何かが落ちている。
湊がそっと屈み、懐中電灯の光を当てた。
そこにあったのは──
骨だった。
人の腕の骨。指先まで形を保ったまま、乾ききった皮膚がわずかに残っている。
「……これは……人の……遺体、だ」
湊の声がかすれる。
「白骨化してる……これ、いつの……」
柏原が目を見開いた。
「うそ……。こんなところに、死体が?」
羽鳥が口元を押さえる。
赤坂が足を止めたまま、周囲を警戒する。
「こんなもん……埋めてたってレベルじゃねえぞ。放置だ。
それも、ただの事故じゃねえ。これは、“遺棄”だ」
湊が遺体の位置を確認しながら周囲を見渡す。
「この通路の形……ここは通気がない。発見される可能性もほぼない」
静かに、しかしはっきりと続ける。
「誰かが意図的にここに遺体を放置した。“ここに閉じ込めた”んだ」
柏原の表情が険しくなる。
「それも、かなり昔。十年以上前……いや、それ以上かも」
そのとき──
奥の闇から、何かが落ちる音が響いた。
──カラン……。
湊たちの全員が、即座に動きを止めた。
「誰か、いるのか」
湊の問いに、返事はなかった。
赤坂が身構える。
懐中ナイフを取り出し、通路の奥へと視線を向ける。
静寂の中、淡い光がかすかに揺れる。
そして、ぼんやりと──
壁際に、異様に細く歪んだ“影”が浮かび上がる。
「……あれは──」
次の瞬間、影は音もなく通路の奥へと消えた。
「待て、追うのか!?」
赤坂が一歩踏み出しかけたが、湊が腕を伸ばして制した。
「落ち着け。相手の意図が読めない。ここで無暗に進めば──」
その先は言わなかったが、全員が同じ結論を胸に抱いていた。
──戻れなくなるかもしれない。
「……まずは、この空間の全体像を把握しましょう」
柏原が言い、周囲を照らしながら歩き出す。
地下空間は、一つの円形ホールを中心に、放射状に通路が伸びていた。
湊たちが進んできたのは、そのうちの一本にすぎない。
中央には、かつて何かを設置していたらしき鉄枠の残骸があり、足元には焦げ跡が広がっている。
「……焚き火、じゃないわよね」
羽鳥が呟く。
「こんな密室で火を焚けば、一酸化炭素中毒になる」
湊がしゃがみ込み、焦げ跡に指を当てる。
「……燃やしたんだ。“何か”を。証拠か、痕跡か、それとも──」
柏原が、別の通路にライトを向けた。
そこには、倒れかけた棚と、散乱した金属製の道具があった。
「これ……医療器具?」
彼女が拾い上げたのは、錆びついた手術用のピンセット。
「地下で医療行為……?」
羽鳥が眉をひそめる。
「いや、違う。こんな場所で正規の医療が行われていたはずがない」
湊が頷いた。
「つまり、これは“処置”ではなく、“実験”だ」
沈黙が落ちた。
全員が、言葉をなくしていた。
そのとき、別の通路から空気の揺らぎが伝わってきた。
「……こっち」
柏原が言い、足音を忍ばせて通路を進んでいく。
その先には、錆びた鉄格子があった。
「牢屋……?」
赤坂が呻くように言った。
鉄格子の向こうには、わずかに沈み込んだ空間があり、中央に一台の椅子がぽつんと置かれていた。
「見ろ……椅子に、手錠が……」
柏原の声が低くなる。
「ここで、誰かを拘束して……」
羽鳥が言葉を飲み込んだ。
湊が、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「違う。“誰かを閉じ込めた”んじゃない」
「“何かを封じた”んだ──この地下全体で」
「……何かを封じた?」
羽鳥が振り返る。
「でも、こんな場所に、一体何を……」
「ああ。ここに通じるための通路……地下へ通じる通路が“意図的に隠されていた”。
そう考えるのが妥当だろう」
湊の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「……でも、こんなところに一体何を隠していたのかしら……」
羽鳥が再び呟いたそのとき──
「湊、来てくれ」
柏原が、通路脇にあった古びたデスクの前から声をかけた。
「これ……見覚えがあるかもしれない」
湊は即座に足を向けた。
柏原の懐中電灯が照らし出したのは、木製の古びたデスクだった。
表面は煤けており、引き出しには錆びた鍵がぶら下がっている。
「鍵は……壊れてる。開けられそう」
柏原が軽く引き出すと、重たい音とともに、引き出しが軋みながら開いた。
中には紙の束と、金属製の札が数枚、無造作に放り込まれていた。
湊がその束を受け取り、表紙に目を落とす。
「……診療記録……?」
羽鳥が近づいてくる。
「それ、本物? どこの病院のもの?」
湊は慎重にページを捲る。
そこに記されていたのは、明らかに“通常の診療”とは異なる内容だった。
『対象No.5、第四次投与により異常行動発生。拘束処置を継続』
『No.2、投与量を誤り、症状悪化。翌日死亡。経過記録を中断』
『記録の持ち出しは禁止。報告はすべて口頭。管理責任者:K・K』
「これは……」
柏原が唇を引き結ぶ。
「人体実験の記録……?」
湊が一枚ずつ丁寧に紙束を確認する。
記録は断片的で、日付も、場所も伏せられていた。
だが、繰り返される“対象”“投与”“拘束”という単語が、すべてを物語っていた。
「少なくとも、ここで何らかの“非合法な医療行為”が行われていたのは確かだな」
湊が断言する。
羽鳥が、金属製の札を手に取る。
「番号……“No.3”、“No.7”、“No.12”……これ、被験者の識別札?」
柏原が周囲を見渡す。
「記録を見る限り、“生き残っていた者”がいた可能性がある」
「でも、ここには……白骨と、手錠の跡しかない」
「“いない”のか、“どこかへ行った”のか……」
湊が呟いたそのとき、再び通路の奥から音がした。
──ザリ……ザリ……ザリ……。
乾いた砂を踏みしめるような、靴音とは異なる“何かの移動音”。
四人は反射的に光を向けた。
だが、そこには何もいなかった。
あるはずのものが、あるべき場所に“いない”という異様な空白だけが広がっている。
「……この音、さっきの“影”のやつか」
赤坂が低く呟く。
「いや、違うわ」
柏原が即座に否定する。
「これは、もっと……這ってるような音」
羽鳥が肩を抱き、震える声で言った。
「ねえ……こんな場所、もともと本当に“館の一部”だったの?
こんなもの、招待された誰も知らなかった。……管理人だって、知らなかったんじゃないの?」
湊は記録の束を胸元に抱えたまま、静かに言葉を継いだ。
「おそらく、これは“後から足された”構造だ」
「白鷺館の地下ではなく、“白鷺山の地下”に、誰かが“意図的に造った”」
──この館は、舞台装置だった。
だが、それだけではない。
“見せかけの舞台”の裏に隠された、さらに深い“舞台裏”。
湊の視線が、奥の、未だ踏み入れていない暗闇へと向けられる。
「……ここには、まだ何かある」
湊たちは、最奥へと続く通路に足を踏み入れた。
先ほどの“音”が聞こえた方向──
そこだけ、空気が異様に重かった。
「明らかに、他と違うな」
赤坂が前を歩きながら呟く。
「空気の質が変わってる。……生臭い。血の臭いか?」
「生き物の気配……あるわね」
柏原の声が低くなる。
「でも、生きてるというより、“そこに残っている”気配」
数歩進むと、通路が唐突に開けた。
そこには、剥き出しの岩盤に囲まれた空間があった。
コンクリートではない。明らかに自然に近い──
だが、不自然なまでに整った“石室”だった。
中央には、背丈ほどもある石の祭壇のようなものがあり、そこに“それ”はあった。
「……なんだ、これ」
赤坂が顔をしかめる。
石の上に横たえられていたのは、人の形をした何かだった。
骨が、丁寧に並べられている。
だが、ただの遺体ではない。
白骨化した人骨を、人為的に“美術品”のように組み直した異様な姿。
「……アート……か?」
羽鳥が吐き捨てるように言った。
「いや、違う」
柏原が即座に否定する。
「これは、“信仰”だわ。何らかの儀式。……それも、病的なまでに執着した誰かによる」
湊は、言葉を発さずに祭壇へ近づく。
石の上には、細かな刻印があった。
アルファベット、数字、図形、そして──漢字。
「……『無』『封』『還』……?」
湊の口から漏れるような声。
「……何を意味してる……」
「待って、これ……」
柏原が祭壇の下部に目をやった。
「鍵穴がある。しかも、何重にもロックされてる」
赤坂が息を呑む。
「ここ、何かを“納めた”場所だったってことか?」
湊は黙って頷く。
「この部屋は、“封印”の間だ。何かを閉じ込め、二度と戻らせないための」
「それじゃ……俺たち、今その封印を──」
赤坂の言葉が切れる。
そのとき。
空間全体が、微かに軋んだ。
──ギギ……ギ……。
壁の奥から、何かが動くような音。
地下のどこかで、機械のような、あるいは生き物のような──鈍い“呼吸”音。
「……まさか、まだ……」
羽鳥が震える声を漏らす。
湊はゆっくりと振り返る。
「ここは、“終点”じゃない。……“入口”だ」
視線の先。
足元にある鉄枠の奥、そのさらに奥に、暗い“横穴”がぽっかりと開いていた。
何のために作られ、
誰が管理し、
何を閉じ込めたのか。
──すべては、まだ語られていない。
だが、確かなのはただ一つ。
この白鷺館の地下に、“もう一つの真実”が眠っているということだった。