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第10話【封印された部屋】

階段裏の空間──

そこは、これまで誰の目にも触れなかった“異物”だった。




「この壁の奥に、空間があるかもしれないんだな?」


赤坂典孝が低く唸る。

湊は頷き、懐中電灯の光を壁に沿わせながら言った。


「音の反響が不自然だ。内壁の構造が妙に分厚い。……普通じゃない」

「確かに」


柏原旦陽が指先で壁をなぞる。


「表面のパネル、微妙に段差がある。これ……貼り直されてるわ。新しい木材よ」


羽鳥綾子もまた目を細め、壁の継ぎ目に視線を落とす。


「封じられた痕跡……ね」


柏原が腰のツールナイフを取り出し、ゆっくりと刃を差し込む。

ごり、と乾いた音がして、木の一部が浮いた。

瞬間、四人の間に緊張が走る。


「下がれ」


赤坂が反射的に柏原の肩を引いた。


「罠かもしれん」


だが、何も起きなかった。

代わりに、どこか遠くで“何か”が抜け落ちたような空気の変化があった。

……じわり、と漏れ出してくる、こもった熱気。

長年閉ざされた場所特有の、淀んだ匂いが鼻をついた。


「……これ、扉じゃないわね」


柏原が眉をひそめる。


「打ちつけただけの“板”。中に入れないようにしてた……あるいは、“出られないように”」


湊が懐中電灯を構え直す。


「開けるぞ。慎重に」


赤坂が工具を取り出し、板の縁に差し込む。

ひとつ、またひとつと、釘が外されていくたびに、音が廊下に響く。

最後の板が外されたとき、黒い穴が現れた。

だがその奥は、懐中電灯の光さえも、吸い込まれていくようだった。


「……中が、全然見えねえ」


赤坂が呻く。


「空気が、違う。まるで……何年も時間が止まってたみたいだ」


羽鳥が目を細めた。


「空間があるのは確か。でも、ただの物置じゃなさそうね」


湊が一歩踏み出す。



「誰か、先に確認してくれ。俺が照らす」


柏原が頷き、懐中電灯を高く掲げながら、身をかがめて開口部を覗き込んだ。

そして──言葉を失った。

柏原旦陽が、そっと口を開いた。


「……部屋、じゃない」


その言葉に、三人が顔を見合わせた。


「どういう意味だ?」

赤坂が眉をひそめる。

「空間はある。でも、整ってない。壁が……石? いや、コンクリか……。造りが、古すぎる」

柏原が光を奥へ滑らせる。

「人が住むために設計された部屋じゃない。もっと原始的……“防空壕”みたいな」

「地下室ってことか?」

湊が訊くと、柏原は首を振った。

「……断言はできない。でも、階段がある。下に降りてる。斜めに、深く」


羽鳥が小さく息を呑んだ。


「誰にも気づかれずに、こんな構造を……? 本当に、最初から“舞台”だったのね」


湊が、ゆっくりと開口部の縁に手をかける。

冷たい木材の感触が、じわりと指先に染み込んできた。


「俺が先に入る。何かあれば声を上げる」

「待て」

赤坂が前に出た。

「こういうのは、力仕事の得意な奴から行くもんだろ。俺が先に行く。湊はその後に続け」


湊は一瞬だけ迷ったが、すぐに頷いた。


「分かった。……柏原、羽鳥、後ろから照らしてくれ」


四人は順に身をかがめ、開口部をくぐっていく。

中は、まるで地下墓地のような空間だった。

壁面の一部には、鉄骨のような柱が打ち込まれており、表面は煤けたように黒ずんでいた。

地面はむき出しの土で、足を踏み入れるたびに、湿った音が鳴る。


「……妙な作りだな。建築の素人仕事にしちゃ、手が込んでる」

赤坂が壁を叩きながら呟く。

「何に使われてたのかしら……。こんな構造、聞いたことない」

羽鳥の声も、やや震えていた。




「“舞台の裏”にしては、陰湿すぎるな」

柏原が後ろを振り返り、湊に小声で囁いた。

「まるで……誰かを“閉じ込めていた”ような空気よ」


湊の足が止まる。

そのとき、奥から微かな反響音が聞こえた。

──コツ……コツ……。

何かが、硬い床を打つ音。


「……足音?」

羽鳥が立ち止まる。

「違う」

柏原が即座に否定した。

「人の歩調じゃない。もっと……一定。機械的な……」


湊が手を挙げ、全員に停止を指示する。

懐中電灯の光が揺れた。

そして、奥の闇の中に──

“何かの影”が、ほんの一瞬だけ、横切った。


「今、見えた……?」


湊が、すぐ前を歩く赤坂に問いかけた。


「……ああ。何かが動いた」

赤坂が低く唸る。

「人影……かどうかは分からねえが、確かに“いた”」

「でも、この空間に誰かいるはずが──」

羽鳥が言いかけて、声を止めた。


否定しきれなかった。

この館において、“いるはずがない”という言葉は、もはや信用できない。


「行くしかないわね」

柏原が一歩前に出る。

「足音の消えた方向……慎重に」


四人は足音を殺しながら、闇の奥へと進んでいく。

地下空間は迷路のように複雑だった。

複数の通路が枝分かれし、低い天井と閉塞感が不快な圧力を生む。


「この構造……明らかに普通じゃないわ。

 防空壕でもなければ、倉庫でもない」

柏原が天井を照らしながら呟く。

「古い……だけじゃない。目的が不明すぎる」

羽鳥の声が、かすかに震えていた。


そのとき、赤坂が突然立ち止まった。



「……おい、あれ、何だ」

彼が照らす先、地面に何かが落ちている。


湊がそっと屈み、懐中電灯の光を当てた。

そこにあったのは──

骨だった。

人の腕の骨。指先まで形を保ったまま、乾ききった皮膚がわずかに残っている。


「……これは……人の……遺体、だ」

湊の声がかすれる。

「白骨化してる……これ、いつの……」

柏原が目を見開いた。

「うそ……。こんなところに、死体が?」

羽鳥が口元を押さえる。


赤坂が足を止めたまま、周囲を警戒する。


「こんなもん……埋めてたってレベルじゃねえぞ。放置だ。

 それも、ただの事故じゃねえ。これは、“遺棄”だ」


湊が遺体の位置を確認しながら周囲を見渡す。


「この通路の形……ここは通気がない。発見される可能性もほぼない」

静かに、しかしはっきりと続ける。

「誰かが意図的にここに遺体を放置した。“ここに閉じ込めた”んだ」


柏原の表情が険しくなる。


「それも、かなり昔。十年以上前……いや、それ以上かも」



そのとき──

奥の闇から、何かが落ちる音が響いた。

──カラン……。

湊たちの全員が、即座に動きを止めた。


「誰か、いるのか」

湊の問いに、返事はなかった。


赤坂が身構える。

懐中ナイフを取り出し、通路の奥へと視線を向ける。

静寂の中、淡い光がかすかに揺れる。

そして、ぼんやりと──

壁際に、異様に細く歪んだ“影”が浮かび上がる。


「……あれは──」


次の瞬間、影は音もなく通路の奥へと消えた。


「待て、追うのか!?」

赤坂が一歩踏み出しかけたが、湊が腕を伸ばして制した。

「落ち着け。相手の意図が読めない。ここで無暗に進めば──」


その先は言わなかったが、全員が同じ結論を胸に抱いていた。

──戻れなくなるかもしれない。


「……まずは、この空間の全体像を把握しましょう」

柏原が言い、周囲を照らしながら歩き出す。


地下空間は、一つの円形ホールを中心に、放射状に通路が伸びていた。

湊たちが進んできたのは、そのうちの一本にすぎない。

中央には、かつて何かを設置していたらしき鉄枠の残骸があり、足元には焦げ跡が広がっている。


「……焚き火、じゃないわよね」

羽鳥が呟く。

「こんな密室で火を焚けば、一酸化炭素中毒になる」


湊がしゃがみ込み、焦げ跡に指を当てる。


「……燃やしたんだ。“何か”を。証拠か、痕跡か、それとも──」


柏原が、別の通路にライトを向けた。

そこには、倒れかけた棚と、散乱した金属製の道具があった。


「これ……医療器具?」

彼女が拾い上げたのは、錆びついた手術用のピンセット。

「地下で医療行為……?」

羽鳥が眉をひそめる。

「いや、違う。こんな場所で正規の医療が行われていたはずがない」


湊が頷いた。


「つまり、これは“処置”ではなく、“実験”だ」


沈黙が落ちた。

全員が、言葉をなくしていた。

そのとき、別の通路から空気の揺らぎが伝わってきた。


「……こっち」

柏原が言い、足音を忍ばせて通路を進んでいく。


その先には、錆びた鉄格子があった。


「牢屋……?」

赤坂が呻くように言った。


鉄格子の向こうには、わずかに沈み込んだ空間があり、中央に一台の椅子がぽつんと置かれていた。


「見ろ……椅子に、手錠が……」

柏原の声が低くなる。




「ここで、誰かを拘束して……」

羽鳥が言葉を飲み込んだ。


湊が、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。




「違う。“誰かを閉じ込めた”んじゃない」

「“何かを封じた”んだ──この地下全体で」



「……何かを封じた?」

羽鳥が振り返る。

「でも、こんな場所に、一体何を……」

「ああ。ここに通じるための通路……地下へ通じる通路が“意図的に隠されていた”。

 そう考えるのが妥当だろう」

湊の声は低く、しかし確信に満ちていた。

「……でも、こんなところに一体何を隠していたのかしら……」

羽鳥が再び呟いたそのとき──

「湊、来てくれ」

柏原が、通路脇にあった古びたデスクの前から声をかけた。

「これ……見覚えがあるかもしれない」


湊は即座に足を向けた。

柏原の懐中電灯が照らし出したのは、木製の古びたデスクだった。

表面は煤けており、引き出しには錆びた鍵がぶら下がっている。


「鍵は……壊れてる。開けられそう」

柏原が軽く引き出すと、重たい音とともに、引き出しが軋みながら開いた。


中には紙の束と、金属製の札が数枚、無造作に放り込まれていた。

湊がその束を受け取り、表紙に目を落とす。


「……診療記録……?」


羽鳥が近づいてくる。


「それ、本物? どこの病院のもの?」


湊は慎重にページを捲る。

そこに記されていたのは、明らかに“通常の診療”とは異なる内容だった。

『対象No.5、第四次投与により異常行動発生。拘束処置を継続』

『No.2、投与量を誤り、症状悪化。翌日死亡。経過記録を中断』

『記録の持ち出しは禁止。報告はすべて口頭。管理責任者:K・K』


「これは……」

柏原が唇を引き結ぶ。

「人体実験の記録……?」


湊が一枚ずつ丁寧に紙束を確認する。

記録は断片的で、日付も、場所も伏せられていた。

だが、繰り返される“対象”“投与”“拘束”という単語が、すべてを物語っていた。


「少なくとも、ここで何らかの“非合法な医療行為”が行われていたのは確かだな」

湊が断言する。


羽鳥が、金属製の札を手に取る。


「番号……“No.3”、“No.7”、“No.12”……これ、被験者の識別札?」


柏原が周囲を見渡す。


「記録を見る限り、“生き残っていた者”がいた可能性がある」

「でも、ここには……白骨と、手錠の跡しかない」



「“いない”のか、“どこかへ行った”のか……」

湊が呟いたそのとき、再び通路の奥から音がした。


──ザリ……ザリ……ザリ……。

乾いた砂を踏みしめるような、靴音とは異なる“何かの移動音”。

四人は反射的に光を向けた。




だが、そこには何もいなかった。

あるはずのものが、あるべき場所に“いない”という異様な空白だけが広がっている。


「……この音、さっきの“影”のやつか」

赤坂が低く呟く。

「いや、違うわ」

柏原が即座に否定する。

「これは、もっと……這ってるような音」


羽鳥が肩を抱き、震える声で言った。


「ねえ……こんな場所、もともと本当に“館の一部”だったの?

 こんなもの、招待された誰も知らなかった。……管理人だって、知らなかったんじゃないの?」


湊は記録の束を胸元に抱えたまま、静かに言葉を継いだ。


「おそらく、これは“後から足された”構造だ」

「白鷺館の地下ではなく、“白鷺山の地下”に、誰かが“意図的に造った”」


──この館は、舞台装置だった。

だが、それだけではない。

“見せかけの舞台”の裏に隠された、さらに深い“舞台裏”。

湊の視線が、奥の、未だ踏み入れていない暗闇へと向けられる。


「……ここには、まだ何かある」


湊たちは、最奥へと続く通路に足を踏み入れた。

先ほどの“音”が聞こえた方向──

そこだけ、空気が異様に重かった。


「明らかに、他と違うな」

赤坂が前を歩きながら呟く。

「空気の質が変わってる。……生臭い。血の臭いか?」

「生き物の気配……あるわね」

柏原の声が低くなる。

「でも、生きてるというより、“そこに残っている”気配」



数歩進むと、通路が唐突に開けた。

そこには、剥き出しの岩盤に囲まれた空間があった。

コンクリートではない。明らかに自然に近い──

だが、不自然なまでに整った“石室”だった。




中央には、背丈ほどもある石の祭壇のようなものがあり、そこに“それ”はあった。


「……なんだ、これ」

赤坂が顔をしかめる。


石の上に横たえられていたのは、人の形をした何かだった。

骨が、丁寧に並べられている。

だが、ただの遺体ではない。




白骨化した人骨を、人為的に“美術品”のように組み直した異様な姿。


「……アート……か?」

羽鳥が吐き捨てるように言った。

「いや、違う」

柏原が即座に否定する。

「これは、“信仰”だわ。何らかの儀式。……それも、病的なまでに執着した誰かによる」




湊は、言葉を発さずに祭壇へ近づく。

石の上には、細かな刻印があった。

アルファベット、数字、図形、そして──漢字。


「……『無』『封』『還』……?」

湊の口から漏れるような声。

「……何を意味してる……」




「待って、これ……」

柏原が祭壇の下部に目をやった。

「鍵穴がある。しかも、何重にもロックされてる」


赤坂が息を呑む。


「ここ、何かを“納めた”場所だったってことか?」


湊は黙って頷く。




「この部屋は、“封印”の間だ。何かを閉じ込め、二度と戻らせないための」




「それじゃ……俺たち、今その封印を──」


赤坂の言葉が切れる。

そのとき。

空間全体が、微かに軋んだ。

──ギギ……ギ……。




壁の奥から、何かが動くような音。




地下のどこかで、機械のような、あるいは生き物のような──鈍い“呼吸”音。


「……まさか、まだ……」

羽鳥が震える声を漏らす。



湊はゆっくりと振り返る。




「ここは、“終点”じゃない。……“入口”だ」


視線の先。

足元にある鉄枠の奥、そのさらに奥に、暗い“横穴”がぽっかりと開いていた。

何のために作られ、

誰が管理し、

何を閉じ込めたのか。

──すべては、まだ語られていない。

だが、確かなのはただ一つ。

この白鷺館の地下に、“もう一つの真実”が眠っているということだった。


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