重たい沈黙が、部屋の中に垂れ込めていた。
数分前まで、神村詩音がそこにいた。にもかかわらず、今や彼女の姿はどこにもない。
その不在が、言い知れぬ不安を膨張させていく。
「……このまま放っておくわけにはいかない」
湊が口を開くと、場の空気が張り詰めた。
「神村詩音を探そう」
決意のこもった声に、柏原旦陽がすぐさま頷いた。
「私も同感。このまま何もしないのは危険よ」
「だな。あの女がただの看護師に見えねぇのは、もう誰の目にも明らかだ」
赤坂剛が腕を組みながらうなるように言った。
「用心するに越したことはないですからね」
白鳥一誠も穏やかな口調ながら、わずかに眉をひそめている。
使用人部屋の一角。沈んだ表情を見せていた三ツ葉沙耶が、ふいに湊の袖を掴んだ。
「……行っちゃうの?」
「ああ。でも、すぐ戻る。ここにいてくれ」
沙耶の不安げな視線を受け止めながら、湊は優しく頷いた。
その隣では、高峰凜が自らの腕に巻かれた包帯を見下ろしていたが、ふと顔を上げる。
「何かあったら、すぐに戻ってきて。……携帯は、もう圏外だよね?」
「ああ。だからこそ、無理はしない」
小田切翔馬が肩をすくめながら言葉を継ぐ。
「こっちはこっちで、扉に物でも立てかけておきますよ。何かあったら、大声でも出してください」
天城理沙が沙耶の肩をそっと抱き寄せるようにして、口を開いた。
「……みんな、気をつけて」
*
捜索に加わるのは六人。一条湊、柏原旦陽、赤坂剛、白鳥一誠、菊地舞、そして指宿涼夏。
二人一組で行動する。湊と柏原、赤坂と白鳥、菊地と指宿。組み合わせは自然だった。
「じゃあ、俺と柏原で一階西側。書庫や応接間を中心に回ろう」
「彼と私は、この東側、キッチンや倉庫を見てきます」
白鳥の申し出に、赤坂が無言で頷いた。
「残るのは、二階の客室群ですね。菊地さん、よろしく」
涼夏の微笑みは柔らかく、どこまでも人当たりが良い。しかし――。
(あの顔は、仮面だ)
湊はその笑みに、何か作られたものを感じていた。
*
廊下を進みながら、湊はふと口を開いた。
「さっき、高峰が圏外だって言ってたよな」
横を歩く柏原は、ちらりと視線を向ける。
「言ってたわね」
足音と雨音だけが反響する廊下。床板の軋む音が、古びた館の重さを物語っている。
「だが、お前は……さっき“本庁と連絡が取れた”って言っていた」
柏原の足が一瞬止まりかけたが、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。
「……申し訳ないけど、それは言えないわ」
声色は落ち着いている。だが、その奥にあるのは明らかな“情報の壁”だった。
「警察にも、いろいろあるのよ」
湊はそれ以上言葉を重ねなかった。代わりに、頭の中で静かに考えを巡らせる。
(……公安的なもの、か。まあ、言えないなら言えないで構わない。少なくとも、他の連中は気づいていなかった)
指摘されなければ、ただの無線交信か何かだと思われただろう。
だが――
(……いや。二人、気づいていたな。指宿涼夏と白鳥一誠)
湊の脳裏に、あのときの二人の視線がよぎる。
指宿はわずかに目を細め、白鳥は微笑の奥で何かを測るような沈黙を保っていた。
(あの二人は、確実に“何かに気づいていた”。だが――なぜ、何も言わなかった?)
疑念の種が、静かに心の中で芽吹いていく。
彼らは黙っていた。
その沈黙は、無関心からくるものではない。むしろ、あえて触れないという“選択”だった。
(つまり……それぞれが、それぞれの思惑で動いているということか)
*
「……ここが書庫だな」
目の前に立ちはだかる扉を、湊はそっと押し開けた。
重い蝶番が、軋んだ音を立てる。
懐中電灯の明かりが、本の山と棚の埃に照らされる。古びた紙の匂いと、湿気の混ざった空気が鼻をついた。
「少し、手分けして探すか」
「ええ。詩音がこんなところに隠れているとは思えないけど……何か手がかりがあるかもしれないわ」
二人は無言で、書棚の奥へと歩みを進めた。
*
書庫の中は、静まり返っていた。
足を踏み入れても、埃が舞うような気配はない。むしろ、驚くほど整っていた。
棚に並んだ書籍の多くは古びていたが、いくつかの本には明らかに最近動かされた形跡がある。
湊と柏原は、互いに言葉を交わさず、無言のままその空間を目でなぞった。
書庫に誰かが“入った可能性”はある。だが、“今”ここに隠れている気配は、感じられない。
「……応接間を見よう」
湊が囁くように言い、柏原が軽く頷く。
二人は足音を殺し、書庫を後にした。
*
一方、1階東側。
キッチンでは、赤坂剛が引き戸の奥を確認しながら、黙々と動いていた。
「ったく……この棚、作りが歪んでやがる。ネジ打ちが甘ぇな」
赤坂は天板を軽く叩いて確認し、鼻を鳴らす。
「さすが、工務店に勤めていただけあって、目の付け所が違いますね」
「職業病ってやつかもな」
その背後で、白鳥一誠が冷蔵庫を開け、使われていない庫内をひと目見てすぐ閉じた。
「調理に使ったような形跡はありませんね。ただ……保存食の一部は、最近になって廃棄されたような気配がある」
「つまり、誰かが生活してたってことか?」
赤坂が振り返る。
「可能性はあるかと。食品類は残っていませんが、シンクの下、ほら。新品に近いスポンジがあります」
白鳥が指さした場所には、包装を破られたばかりの清掃用具。湊たちが先日見たシャンプー類と合わせ、どう見ても“無人の廃墟”ではなかった。
「……幽霊が風呂入るわけじゃねぇよな」
赤坂が皮肉めいた調子で笑うが、その声に冗談めいた響きはない。
白鳥はそんな彼の背中を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「そういえば、あなた――以前に言っていましたね。“何かおかしい”と。今でもそう思いますか?」
赤坂は一瞬だけ黙ったあと、答えた。
「ああ。ますます、な。それに、こんだけのモンを見せられちゃあ、舞台の為に新しく建てられたってのも納得がいくぜ」
「確かに。あからさまに新しいシャンプーとリンス。それに、このカミソリ。どれも最近のものですからね」
「ちっ、不気味な館だぜ」
二人は目を合わせずに次の探索地――倉庫へ向かった。
*
2階の回廊には、吹き抜けを通じて1階から微かに響く物音や声が届いていた。
だがそれも、じきに沈黙に飲み込まれる。
「……静かね」
菊地舞はそう呟きながら、懐中電灯を客室の1つに向けて照らした。
館の2階は、客室が左右に並ぶ構造になっている。装飾は簡素だが、かつては来客用として使われていた形跡がある。
しかし、今やどの部屋も、ほこりと湿気に支配されていた。
「誰かがここに逃げ込んだような痕跡はないわね」
カーテンの隙間を確認しながら、菊地は独り言のように言った。
隣を歩いていた涼夏は、静かに笑った。
「詩音さんが隠れたいのなら、もっと奥まった場所を選ぶと思う。ここは目立ちすぎるわ」
「……指宿さん、あなたずいぶん冷静ですね。怖くないんですか?」
「怖いに決まってるわ。でも、それを顔に出したら、余計に疲れるだけだと思いません?」
その微笑は、柔らかくも完璧すぎて、どこか作為を感じさせた。
菊地は返す言葉を見つけられず、視線を廊下の奥へ向ける。
「もう少し見て回りますか? それとも、他の区画へ移動します?」
「その前に……ごめんなさい、ちょっとトイレ行ってきていいかしら?」
ふいに涼夏が言った。
「え? ……え、ええ。それじゃあ、私はここで待ってますね」
「すぐ戻るから、少しだけここで待ってて」
そう言って、涼夏はゆっくりと廊下の曲がり角へと姿を消していった。
*
ひとり残された菊地は、ふうっと息を吐いた。
「……まったく、こんなときに」
ぶつぶつと文句を言いながらも、涼夏の姿が消えた方向へ何度もちらりと目をやる。
その間にも、時計の針の音のように、館の軋む音がどこかで響いた。
ただの古びた建物のきしみ音――そう思いたかった。
だが、ほんの一瞬、廊下の奥で人の気配のようなものを感じて、菊地はぎゅっと懐中電灯を握りしめた。
*
舞は、回廊の壁にもたれながら、トイレへ向かったはずの涼夏を待ち続けていた。
五分……いや、もっとか。
「……遅いな……」
思わず独り言が漏れる。
だが、その言葉が声として届く相手は誰もいない。回廊は静寂に沈み、聞こえるのは風のうなりと、館の軋む音だけだった。
何かの気配を感じて振り向いても、そこにあるのはただの壁と暗がり。
やがて、曲がり角の向こうから、軽い足音が戻ってくる。
「お待たせ」
涼夏が、何事もなかったように現れた。
「……随分時間かかりましたね。何かありました?」
「ううん。ごめんなさい、場所がちょっと分からなくて」
涼夏の微笑みは穏やかだった。
その表情の裏に、何を隠しているのか──菊地には、まだ知る由もない。
*
やがて、三組は再びロビーに集まった。
赤坂と白鳥が先に戻り、しばらくして湊と柏原、そして最後に菊地と指宿が合流した。
「どうだった?」
湊の問いに、赤坂が首を振る。
「収穫なしだ。誰かが潜んでる気配もねえ。気持ち悪ぃほど綺麗だったがな」
白鳥が後を継ぐ。
「そうですね。不気味なほど生活感はありましたが、人影は見当たりませんでした」
湊はうなずき、柏原に視線を向ける。
「こっちも同じ。書庫も応接間も無人。詩音の姿はどこにもなかった」
「二階も同様です。ね、指宿さん?」
菊地が振り返ると、涼夏は静かに頷いた。
「ええ。何も見つからなかったわ」
一同が短く安堵の息をついた、そのとき――
ドサッ──。
突如、鈍い音が響いた。
誰かが何かを落としたような音。全員の視線が、一斉に吹き抜けの中央へ向かう。
「…………ッ!」
そこには、石張りの床に倒れ伏した“人”がいた。
その姿は、疑いようもない。
神村詩音だった。
青ざめた肌。崩れた体勢。右手には、一枚のカードが握られている。
「嘘でしょ……!?」
菊地が声を失いかけるのと同時に、柏原が駆け寄っていた。
その動きに無駄はなかった。脈を取り、頸部に指を当て、体温を確認する。
数秒後、彼女は静かに言った。
「……死んでるわ」
沈黙。
空気が張り詰める。
湊は、詩音の右手に握られたものへと手を伸ばす。
一枚のタロットカード──
それは、「塔」。
ローマ数字で記された「XVI」の印と、激しい落雷に打たれて崩れ落ちる塔の絵柄。
「……見立て殺人、か。これは、“塔”──」
沈黙の中に、赤坂剛の低い声が響いた。
「……塔?」
湊は、手元のカードを見つめたまま小さく頷く。
「ああ。“XVI──塔”。タロットカードの中でも、特に破滅的な意味を持つ一枚だ」
「破滅?」
「塔は、虚構の上に築かれた秩序の崩壊、突然の災厄、暴かれる嘘。そういったものの象徴とされている。積み上げた“偽り”が、雷によって一瞬で打ち砕かれる……そんな解釈だ」
その説明に、白鳥一誠が静かに補足する。
「……描かれているのは、天を突く高塔が稲妻に打たれて崩れ落ちる姿。神話に登場する“バベルの塔”をモチーフにしたものですね」
赤坂が顔をしかめた。
「ば、バベルの塔? なんだそりゃ。そんなもん、初耳だぞ」
湊はカードを懐へ収め、顔を上げた。
「申し訳ないが、いまはそんなことはどうでもいい。気になるなら――生きて帰ってから、調べてくれ」
その語尾に、場の誰もが微かに息を呑んだ。
菊地舞が震える声で口を開く。
「で……でも、仮にこれが“見立て殺人”なら、もう四人目よね。藤堂さん、森崎くん、羽鳥さん、そして詩音さん。もし、物語として“起承転結”があるなら、これが“結”……もう、殺人は起きないってこと、ですよね?」
その言葉に、ほんの一瞬、誰かが安堵しかけた。
しかし、その空気を、柏原旦陽の冷えた声が切り裂く。
「……それはどうかしらね」
柏原の冷たい言葉に、空気が一層重たく沈んだ。
だが、それをすぐさま破ったのは、白鳥一誠だった。
「ほう? それはどういう意味ですか?」
柏原は立ち上がりながら、静かに言う。
「ここでは簡単なことしかわからないけれど……死亡推定時刻は、今からおよそ十二時間前と推定できるわ」
「は……? なんでそんなこと分かんだ?」
赤坂が目を丸くする。
湊が代わって説明を始めた。
「詩音の背中には、はっきりと死斑が出来ていた」
「しはん?」
「体内の血液は、死後に重力で下へ沈む。仰向けで死ねば、背中側に沈んでいく。今回のように死斑が明瞭で、しかも背部に集中しているということは……死亡後、長時間その姿勢で“放置されていた”ということだ」
柏原がうなずき、さらに補足する。
「死斑は、死亡後すぐには現れないけれど、時間が経つにつれて徐々に広がっていくの。だいたい十二時間で最大に達して、二十四時間で固定される。それ以上は、ほとんど変化しないわ」
「それに、死斑は指で押すと一時的に薄くなることがある。けれど、ある程度時間が経つとそれも起きなくなる。その反応を見れば、おおよその死亡時刻が推定できるの」
白鳥は目を細め、どこか納得したように頷いた。
「聞いたことがあります。死斑が消えなければ、少なくとも“十二時間以上”が経過していると考えるのが一般的だと」
「その通りよ。つまり、神村詩音は……」
柏原の声が、わずかに低くなる。
「……とっくに死んでいた。私たちがこの館で動いていた間、ずっとね」
「ま、マジかよ……」
「もっとも、司法解剖しないと詳細な死亡推定時刻は出てこないけれどね」
「いや。今回に限っては、問題はない」
見立て殺人──だが、この死は、発見された“今”に起きたものではない。
“あのとき”すでに、神村詩音はこの世を去っていた。
ならば、この“塔”は何の象徴なのか。
誰が、何のために、このタイミングで“遺体”を落としたのか。
塔は崩れた。けれど、その崩壊が始まったのは、もっと前だったのかもしれない。