塔が崩れた。
二階の回廊から、無造作に落とされた神村詩音の遺体。
それは死の瞬間ではなかった。ただの“終わり”ではない。むしろ、新たな演目の“始まり”のようにさえ思えた。
湊は、カードを懐に収めたまま、隣に立つ柏原に視線を向ける。
「……柏原。さっきの話だけど、十二時間前に詩音が死んでたっていうのが確かなら……」
「ええ。“今”落ちてきたということ自体が、もう異常なのよ。誰かが、あえてこのタイミングで“落とした”」
「殺したんじゃない。“演出”した……そう考えるべきなんだろうな」
湊は深く息を吐く。
「詩音が言っていたな。……“ピースが足りない”と」
柏原は視線を少しだけ伏せて、すぐに応じた。
「でも、あれは彼女を犯人として追い詰めるためのピース、という意味だったはずよね?」
「ああ。だが、どうにも引っかかる。それだけじゃなかった気がする」
湊の脳裏に、詩音の――いや、あの人物の微笑が浮かぶ。
「それに、こんな言葉も残していた。“誰が”ではなく“何のために”、と」
柏原が小さく息を呑み、そして呟く。
「つまり、“誰が神村詩音の遺体を落としたのか”じゃない。“なぜ”、落とす必要があったのか……ということね」
湊は小さく頷く。
「“誰か”を殺すためじゃない。誰かに、“見せる”ために仕組まれた可能性がある。――だとすれば、俺たちは今、犯人の“観客”にさせられてるのかもしれない」
そう言った自分の声が、どこか冷たく響いた気がした。
柏原は口を閉ざしたまま、ただ沈黙でその可能性を認めていた。
神村詩音の遺体は、柏原と赤坂の手で広間へと運ばれた。
吹き抜けの下、石張りの床に横たわっていたその姿は、今は白いシーツで覆われている。
ロビーには、なおも生々しい血痕と割れたガラス片が残っていた。誰もが本能的にその場から距離を置きたくなった。
そのため、湊たちは使用人室へと移動していた。
椅子をいくつか並べ直し、ランタンを灯して即席の“控え室”が作られる。
沙耶は理沙の隣に身を寄せ、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。小田切翔馬は、足を引きずる凜の世話をしながら、慎重に水筒の中身を確かめていた。
狭いながらも全員が顔を合わせており、湊はあらためて確認を取った。
「今、この場にいるのが……俺、柏原、赤坂、白鳥、舞、指宿、理沙、沙耶、小田切、そして凜。全員だな」
「……ええ。今のところは」
柏原が頷いた。彼女の視線は、白鳥一誠と指宿涼夏を交互に見やっていた。
その空気を切るように、舞が立ち上がる。
「私……ちょっとだけ、一階の北側を見てこようと思います」
皆の視線が舞へ集まる。
「白鳥さんと話していたとき、少し引っかかった収納部屋があって……確認しておきたくて」
「一人で行くのか?」
赤坂が怪訝な顔で聞き返す。
「大丈夫。すぐ戻ってきますから」
舞が懐中電灯を手に取ったその時――
「なら、私が一緒に……」
穏やかな声とともに、指宿涼夏が立ち上がろうとした。
だが、舞は一瞬の逡巡の後、首を横に振った。
「ありがとう。でも、今はひとりで考えたいの。落ち着いて整理したいから」
涼夏の笑みは変わらない。ただ、わずかに瞳が細められた。
「……わかったわ。くれぐれも無理はしないで」
「ええ。ありがとう」
舞は扉の方へ向かい、そのまま何も言わず出ていった。
湊は黙ってその背中を見送った。すぐ隣で、柏原も同じように目を細めている。
指宿の声は穏やかだった。だが、その声音には“懸念”でも“優しさ”でもない、もっと別の何かが混じっていた。
使用人室に戻ってきた空気は、なおも重く沈んでいた。
けれど、黙っていても何も進まない。湊が口を開く。
「……神村詩音の件だけど、あらためて整理しておこう。“落ちて死んだ”わけじゃない。“死んだ遺体が落とされた”んだ」
「背中に死斑。死亡から十二時間以上。体温の低下、筋肉の硬直……死亡推定時刻と一致している」
柏原が、検視結果を改めて短く述べる。
「でもさ……その死体、どこにあったんだよ?」
赤坂の低い声に、皆の視線が揺れる。
「ロビーの真上……二階の吹き抜けの真下に落ちたが、あの高さから人が抱えて投げ落とすのは不可能だ。距離も角度も無理がある」
「となると……やっぱり、何かの“仕掛け”ね」
柏原の言葉に、湊も静かに頷いた。
「吊っていた、固定していた、あるいはタイミングを測って落下するような演出だった。あれは“発見させるための死”だ」
白鳥が小さく目を細める。
「まるで、芝居の幕引きのようですね。強い印象を与える最後の一手……とでも言うべきか」
「印象はあったな。俺、ほとんど詩音さんと話してないのに、“変わった人だな”って残ってる」
小田切の言葉に、凜も頷く。
「うん……一言二言しか交わしてないけど、“誰かに見せるために喋ってる”って、そんな印象だった。普通じゃない空気感」
湊は静かに、口を閉ざした。
詩音――いや、“あの人物”の言動は、確かに1つの演目のようだった。
少しの沈黙の後、湊が小さく呟いた。
「……菊池は、いま一人で北側を見に行ってるんだったな。気になるところがあった、と言っていたから……二階部分か」
「気になる部分って、何なのかしら?」
柏原がふと視線を向ける。
「指宿さん、あなたは何か心当たりある?」
指宿涼夏は、わずかに首を傾げた。
「いいえ。私は何も気づかなかったわ」
その表情には変わらず柔らかな微笑みが浮かんでいるが、湊はその内側にある“空白”に目を細めた。
足音が、廊下に小さく反響する。
舞は、懐中電灯を胸の高さで構えながら、慎重に歩を進めていた。
「えっと……確かこの辺だったはず……」
北側の収納部屋。白鳥と一緒に回った際、何気なく開けた引き戸の奥に、“妙に整理されている棚”があった。
廃墟同然の館で、そこだけやけに整然としていたのが引っかかった。
「……うう。一人だとやっぱり怖い……」
自嘲気味に呟く。声に出せば少しは紛れるかと思ったが、静まり返った館の中では逆にその声が浮き上がり、自分の心音をさらに大きくさせた。
暗い回廊を曲がると、目の前にはあの突き当たりが見えてくる。
……そう、指宿が「トイレに行く」と言って歩いていった、あの方向。
舞は、ほんのわずか足を止める。
あのとき、彼女は何分くらい姿を消していたか。戻ってきたときは、少し汗ばんでいた気がする。けれど、口調も表情もいつも通りで──
「…………?」
その時、不意に足元に差し込んだ光が、床の一点を照らした。
何かが……違う。
収納扉の脇、板張りの床の一部が、ほんの僅かに浮き上がっているように見える。
舞は、身をかがめてその部分に手を伸ばした。
「……妙ね……。これは一体……?」
指先が触れたそのとき、確かに“たわみ”があった。
隙間……?
その直後、背後の空気がふ、と揺れたような気がした。
誰もいないはずの廊下で、微かに風が通り抜ける音。
だが、それが“本当に風”なのか、舞には判断がつかなかった。
足音が、回廊の板を踏むたびに乾いた音を立てて響いた。
懐中電灯の明かりだけが、濃密な闇を切り裂いて前を照らす。
「えっと……確かこの辺だったはず……」
菊池舞は、白い息を吐くような声でそう呟いた。
目的地は、二階北側の奥。前に――指宿涼夏と一緒に捜索した時、彼女が「ちょっとトイレに行ってくる」と言って離れていった方向だ。
そのとき、自分は一人で待っていた。あの時は何も感じなかった。けれど、今――。
「……うう、一人だとやっぱり怖い……」
わざと軽口のように言ってみても、気休めにはならなかった。むしろ、自分の声が廊下に浮いて、不安を煽る。
突き当たりに、あの扉が見えてくる。
(……あのとき、何かを隠していたの?)
そんな疑念が、脳裏をかすめる。
舞は懐中電灯を向けたまま、足を止めた。
古びた収納扉の前。壁に埋め込まれたような木製の引き戸。その脇、床板の一部が、ほんの少し盛り上がっているように見えた。
「……妙ね……これは一体……?」
しゃがみ込んで、そっと手を伸ばす。
木材のつなぎ目が、微かに浮いている。触れると、柔らかく沈む感触があった。
……たわんでいる。
だが、それが何を意味するのかを考えるより先に、背後の空気が“ぬるり”と動いた気がした。
ぞくり、と背筋に冷たいものが這い上がる。
振り向いても、誰もいない。
なのに、たしかに“気配”だけが、そこにあった。
背後の気配は──気のせいだったのかもしれない。
そう思い込むことで、なんとか心の動揺を押さえつける。
「……っ。落ち着いて、私」
胸元に手を当て、深呼吸をひとつ。
怖がってばかりでは、何も進まない。そう自分に言い聞かせながら、改めて足元の床を見下ろした。
――たしかに、ここはおかしい。
古びた板のつなぎ目。微かなたわみ。もしかすると、下に空間があるのかもしれない。床下収納か、それとも……。
「とりあえず、まずは周辺をもう一度確認しよう」
小さく頷いて、通路側に身体を向けた瞬間――ふと、舞の中である疑問が芽生えた。
「あれ……?」
今、自分が歩いてきたこの通路。
たしか、指宿さんが“トイレに行ってくる”と言って向かっていったのも、この方向だった。だから、自分はそれを思い出して、ここに来た。
だけど――。
「……今、私、トイレの前……通った?」
顔をしかめながら、懐中電灯の明かりを頼りに、来た道を引き返す。
狭い回廊。壁に扉が並ぶ部分は少ない。幾つかの客室と、収納扉。
それらを一つひとつ数えながら歩く。
――トイレは、ない。
「……ない。やっぱり……ここには、トイレなんてなかった……」
立ち止まった舞は、ゾクリと背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。
指宿涼夏は、どこへ向かっていたのか。
“トイレに行ってくる”と言って、離れていった彼女が向かったのは――この通路。
だが、トイレは存在しなかった。
つまりあのとき、彼女は――。
「…………っ」
懐中電灯を握る手に、じっとりと汗が滲んでいるのを、舞はようやく意識した。
ふと、すぐそばの扉が視界に入る。
木の建て付けが悪く、うっすらと隙間が開いているその扉。
その暗がりの奥から、わずかに、何かの気配が――。
舞は、手に汗ばんだ懐中電灯を握りしめたまま、わずかに開いた扉の前で立ち尽くしていた。
「う……こ、怖い……。でも、確認しないと……」
喉がひくりと鳴る。
呼吸を整え、意を決して扉に手をかける。
ギィ……。
鈍く軋む音とともに、扉が開いた。
中は真っ暗だった。光がなければ、何があるかも分からない。
「……誰もいない……。気のせい……よかったぁ……」
胸をなでおろしながら、舞は懐中電灯を持ち直し、部屋の中を一歩ずつ確認していく。
壁際。床の隅。天井。戸棚の影。
何もない。ただの、空き部屋。
誰もいない。何もない。恐れていたようなことは、起きなかった。
肩から力が抜け、安堵の吐息が漏れる。
ほっとした気持ちのまま、くるりと踵を返し、ドアに手をかけようとしたとき――。
「……あれ?」
ふと、足元に違和感を覚えた。
部屋の中。確かに“何もなかった”のだが、逆にそれが不自然に思えた。
「誰もいない。それはいいけど……この部屋、なんでこんなに“何もない”の……?」
懐中電灯の光をゆっくり左右に振る。
他の部屋は、大なり小なり何かがあった。椅子、机、観葉植物、棚、絵、雑誌、古びた日用品。
しかし――この部屋には、本当に“何もない”。
観葉植物どころか、デスクもイスも、本棚も額縁もない。まるで、最初から“何かを置かないようにされた空間”のようにすら感じる。
ただ、唯一の“異物”があった。
部屋の中央に、敷かれた一枚のカーペット。
それは床の色とも、壁紙の色とも馴染んでおらず、まるで後から“それだけ”が意図的に置かれたような浮き方をしていた。
「……明らかに不自然……」
舞はゆっくりとそのカーペットに歩み寄る。
この部屋にだけ、“何もない”という異様さ。
そして、その中心に“だけ”存在する、ぽつんとした色違いの布。
心のどこかで、何かが警鐘を鳴らしていた。
なのに――。
その警鐘を、どうしてか無視してしまった。