部屋の中央に敷かれたカーペットの縁に、舞は指をかけた。
何気ない一枚の布にしか見えない。けれど、この部屋には他に何もない。デスクも、棚も、装飾も――あるべきものがすべて欠けていた。
だからこそ、このカーペットが不自然だった。
(……めくれば、何かが分かるかもしれない)
そう思い、ゆっくりと身を屈めた。
その瞬間だった。
背後に、ふわりと風が動いた。
誰かが、立っている――。
「……え?」
振り返ろうとした。けれど、肩に触れた手がそれを止めた。
それは驚くほど優しい手つきで、むしろ拒絶の意志を奪うように、静かに、舞の動きを封じた。
「や、だっ……」
声を上げかけた口元に、ふいに何かが押し当てられる。
白い布のようなもの。そこから、甘く、どこか冷たい匂いが鼻に流れ込んだ。
(なに……この匂い……)
ぼんやりとした思考の中で、それだけを感じる。
喉が熱い。頭の中に霞がかかったように、視界がぶれていく。
「やめ……や、めて……っ」
必死で振りほどこうとしたが、腕が動かない。膝が折れ、崩れ落ちる。
最後に耳に届いたのは――。
『だいじょうぶよ』
その声が、誰のものだったかを、思い出す前に――舞の意識は闇に沈んだ。
*
再び目を開けたとき、部屋は静まり返っていた。
どれほどの時間が経ったのか、分からない。
けれど、すぐに違和感が襲いかかってくる。
体が重い。息が、浅い。喉が焼けつくように乾いていた。
(……何が……)
立ち上がろうとした瞬間、視界の端に“それ”が映った。
――七輪。
小さな火種が、赤く脈打っている。
煙は目に見えない。けれど、部屋に漂う空気は明らかにおかしい。
(これ……一酸化炭素? 私、ここに閉じ込められて……)
呼吸がどんどん苦しくなる。空気が薄い。息ができない。
立ち上がり、ふらつく体で窓へ駆け寄る。
……開かない。ガムテープで内側から貼られ、破れないよう補強されている。
扉に駆け寄る。取っ手を回す――回らない。
「鍵が……外から……っ!」
頭がくらくらする。視界の端が暗くなりかける中で、舞は扉に体当たりするように叩き始めた。
「――誰かっ! ここにいるの、お願い……!」
こぶしが熱くなる。痛みはもう感じなかった。
「助けて……誰か、お願いっ!!」
空気の薄い密室に、舞の声だけが響いていた。
*
時計がないため、正確な時間は分からない。だが、使用人室の空気に、目に見えない“沈黙”が長く垂れ込めていた。
あれから、どれくらい経っただろうか――舞が「ちょっと確認してくる」と言って部屋を出てから。
湊はずっと、その背中が脳裏から離れなかった。
彼女が言っていたのは、北側。二階の収納あたり。
ただの見落とし。そう言っていたけれど――。
「……戻ってこないな」
誰よりも先に口を開いたのは赤坂だった。腕を組んだまま、落ち着きのない視線を扉に投げている。
「菊池のことよね?」
柏原が低く問う。
「ここを出て、もう二十分は経ってる」
白鳥が時計のない空間で正確にそれを言い当てたのは、彼なりの“冷静”だったのかもしれない。
湊は立ち上がる。
「探しに行こう。何かあったのかもしれない」
「だな。さすがに、もう遅すぎる」
赤坂も椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「四人で手分けして回ろう。北側の収納、回廊、トイレ周り、それぞれの客室。可能性がある場所は一通り確認する」
「その判断には同意します」
白鳥も立ち上がり、ジャケットの袖を整えながら頷いた。
そのときだった。
「私も……ご一緒していいかしら?」
柔らかな声が部屋を満たした。
指宿涼夏が、静かに立ち上がっていた。
「舞さんのこと、私も心配で。ずっと気になってたの」
一瞬、柏原がちらりと湊に目をやる。
湊もまた、迷った。
だが、決断するには時間が惜しかった。
「……分かった。じゃあ、五人で。回廊と北側は分担しよう」
「じゃあ、十分後に再集合でよろしいですかな?」
白鳥が提案し、全員が頷く。
そして――五人は使用人室を出て、闇の中へと散っていった。
その直後、薄暗い廊下を歩く指宿の足取りだけが、ほかの誰よりも静かだった。
まるで、これが“最初から決まっていた役割”であるかのように。
「じゃあ、手分けして探しましょう」
柏原が全体を見渡しながら指示を出す。2階は広く、探索するには役割分担が不可欠だった。
「回廊は広い。俺と柏原で西側、赤坂と白鳥で東側。涼夏、お前は――」
「私が北側を見てくるわ」
すぐさま涼夏が名乗り出る。
「舞ちゃんが最後に向かったのは、そっちのはず。足跡のような痕跡もあったし、気になるの」
その一言に、全員が頷いた。特に異を唱える者もなく、五人はそれぞれの方角へと歩き出した。
*
それからどれほど経っただろうか。湊は柏原と共に、古びた回廊の西側を丁寧に確認していた。
「……ここも異常はないな」
「そうね。けれど……」
そのとき、突然、遠くから女性の声が響いた。
「――ちょっと! 誰か来て!」
明らかに涼夏の声だった。
「涼夏……!?」
湊と柏原が顔を見合わせる。赤坂と白鳥も音を聞きつけて走ってきた。
「今の、指宿さんの声だよな!?」
「北側からだ!」
「行くぞ!」
四人は足音を鳴らしながら、一斉に北側の突き当たりへと駆け出した。
北側の突き当たり、扉の前で、涼夏がこちらに気づいて振り返った。
「あ、皆さん……! ちょうどよかった。この部屋から、さっき音が聞こえたんです。でも、鍵がかかっているようで……中に入れなくて……」
そう言いながら、涼夏は扉を軽くノックする。
――コン、コン。
返事はない。ただ、扉の隙間から、何かが漏れ出しているような――。
「……なんだ? ドアの隙間から……煙……?」
湊が顔をしかめて呟くと、白鳥が声を上げる。
「まさか火事、ですか?」
「こうしちゃいられねぇ! くそっ、開かねぇ!」
赤坂が勢いよくノブをひねるが、扉はびくともしない。歯噛みし、体を沈めて助走をつけると――。
「下がってろ! 俺がやる!」
赤坂が肩から突っ込むように扉に体当たりをかけた。重い音が響き、錠の周辺がギシリと軋む。
「もう一発、いくぞ!」
二度目の突撃で、バキン、と扉の蝶番が悲鳴を上げ、ようやく扉が少しだけ開いた。
その隙間から、白い煙がふわりと流れ出してくる。
「くっ……!」
「舞っ!」
湊が叫びながら室内へと駆け込む。白く煙るその部屋の中で、仰向けに倒れた菊池舞が、床に横たわっていた。
唇は紫色に染まり、胸の上下運動はあるものの極めて微弱。意識は完全に失われていた。
「窓を開けろ! 急げ!」
白鳥が叫ぶ。赤坂が駆け寄るが――。
「ガムテープかよ……開かねぇ!」
窓には内側から何重にもガムテープが貼られ、完全に封じられていた。
「離れて耳を塞いで!」
「あ?」
一発、乾いた銃声が部屋に響き渡ったと思ったら、ガムテープに穴が空き、硝子が砕け散った。
窓を覆っていたガムテープの向こうから、冷たい外気が流れ込んできた。
「これで換気できる。舞さんを早く!」
「あ、ああ」
赤坂は舞を担いで部屋の外へ出た。
部屋に残った湊と柏原、白鳥は、残る窓硝子を全て割って、空気を入れ換えた。
「……それにしても七輪か。まさか、こんな手を……」
床に置かれた七輪の中には、なおも赤い火種が残っている。
「一酸化炭素中毒だ。密室で火を焚いて……窒息させようと……」
湊の低い声が、場の空気を凍らせた。
涼夏は蒼白な顔で口元を押さえ、舞の姿を呆然と見つめていた。
使用人部屋に舞を運び込むと、理沙と沙耶、小田切が驚愕の表情を浮かべて立ち上がった。
ベッドに横たわっていた高峰凜も、驚いたように身を起こしかけるが、足の痛みに顔をしかめてうめいた。
「舞さん!? なにが……」
「今は説明してる暇はねぇ! 柏原、頼む!」
赤坂が息を切らしながら舞を凜の隣の簡易ベッドに横たえると、柏原はすぐにその体に向き直った。
「脈はあるけど浅い……呼吸も弱いし、唇が紫色に変色してる。一酸化炭素中毒の症状ね」
そう呟くと、柏原はまず舞の衣服をゆるめて気道を確保。顎先を上げ、頭を少し後ろに倒す。
そして次の瞬間、彼女は周囲を見回して、舞の体をそっと横向きにさせた。
「気道が塞がる危険がある。仰向けのままじゃ舌が落ち込むし、吐いたときに詰まる。回復体位にするわ」
舞の上の足を曲げ、片腕を下に通して頭を支えるようにし、呼吸がしやすくなるよう横向きに固定する。
「これで、少しは安全な状態になるわ。とにかく、今は新鮮な空気を吸わせること。窓を開けて、換気を続けて」
白鳥と理沙がすぐに頷き、部屋の窓を開放し始めた。
「なんでそこまで詳しいんだ?」
赤坂が問うと、柏原は肩越しに小さく返した。
「警察学校で応急処置の訓練くらいは受けてるのよ」
沙耶は舞のそばに膝をつき、手を握りしめる。
「舞さん……助かるんですよね……?」
「この場でできることはやったわ。あとは、どれだけ早く医療機関に繋げられるか」
部屋の空気は凍りついたように静まり返っていたが、誰もが祈るように舞の呼吸の音に耳を澄ませていた。
誰もが言葉を飲み込み、ただ見守っていた。
柏原は舞の頬に手を添え、懐中電灯で瞳孔を確認する。わずかではあるが、光に対して反応が返ってきた。
「……大丈夫、反応がある。意識は、戻りかけてるわ」
その言葉に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「ほ、ほんとか……!」
赤坂が思わず声を上げる。
舞のまぶたが、かすかに揺れた。微細な動きだったが、誰もがそれを見逃さなかった。
「……ん……」
聞こえたのは、喉を震わせるような小さな吐息。意識はまだ朦朧としているようだったが、確かに彼女は生きている。生きて、ここにいる。
「舞さん……!」
沙耶が思わず舞の手を握る。凛とした指先が、わずかにぴくりと反応を返した。
「よかった……っ、本当によかった……!」
理沙が思わず胸を押さえる。息をついているのは彼女だけではない。小田切も、白鳥も、安堵の吐息を漏らしていた。
「まだ油断はできないけど……このまま回復してくれる可能性はある」
柏原の冷静な声が、全員の耳に届く。
「しばらくはこのまま横向きにして、換気を続けましょう。脳に酸素が届けば、少しずつ意識もはっきりするはずよ」
湊は部屋の隅にあった時計に目を向ける。時刻は、午前六時をまわっていた。
夜は終わりを迎え、曇天ながらも、窓の外にはわずかな光が差し始めていた。
「……夜明け、か」
そう呟いた湊の視線は、まだ安堵しきれない不穏な何かを捉えているようだった。
「でも……終わっていない」
舞が助かったことで、命の灯は1つ救われた。しかし――。
「犯人は、まだこの館の中にいる」
その事実だけは、何一つ変わっていなかった。