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第25話【死神の抱擁】

 静寂の広間に、かすかに風の音が戻ってきていた。

 夜明けの気配が、カーテンの隙間から差し込む。




 湊はソファに腰を下ろすと、ポケットから一枚のカードを取り出した。

 その絵柄には――黒いローブをまとい、鎌を携えた“死神”が描かれている。




「……やはり、これも“見立て”か」




 隣に腰掛けた柏原がカードを覗き込む。


「これで五枚目。吊るされた男、愚者、隠者、塔……そして、この“死神”」


「すべて大アルカナ。“特別な意味”を持たせたかった、と考えるべきだろうな」




「そして、今回は“静かな死”。苦悶の跡もなく、眠っているようだった」


「“死神”の象徴は、終焉、変化、そして受容……“死の静けさ”を描こうとしたのね」




 湊は頷き、カードを見つめたままつぶやく。


「気づかれず、苦しませず、誰にも気づかれずに死をもたらす……それが、今回の“演出”か」


「けれど……」




 柏原は視線を湊に向ける。


「彼女は、生き延びた」


「……ああ。そこに、“誤算”がある。犯人にとって、彼女は“すでに死んでいる”はずだったはずだ」




 そのとき、広間の扉が控えめにノックされた。振り返ると、理沙が立っていた。




「湊さん、柏原さん……! 舞さんが、目を覚ましたみたいです!」




 二人は、無言で顔を見合わせた。

“死神の抱擁”から生還した少女が、何を語るのか――。

 それが、真実に手を届かせる鍵になると、湊は直感していた。



 使用人室のベッドに横たわる舞は、まだ顔色が青白く、汗ばんだ額に理沙が濡れタオルを当てていた。

 その傍らには、赤坂、小田切、凜、白鳥、指宿の姿があった。空気は静まり返っている。




「……大丈夫、少しずつでいいから」


 湊がしゃがみ込み、舞に柔らかく声をかける。




 舞は微かにまぶたを開けた。焦点が合っているような、いないような、頼りない視線。

 だが、声を聞き取る力は、かろうじて残っているようだった。




「わたし……?」




「覚えてるか? さっき、君は部屋で倒れていたんだ。何か思い出せることはないか?」




 舞は、しばらく黙って天井を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。




「……あまい……匂いが、してたの。……お菓子みたいな、やさしい香り」


「香り……?」




「うん……それから……誰かが、近くにいたの。あったかい……手だった。すごく……やさしくて……」




 湊と柏原は視線を交わす。

 その様子を見ていた赤坂が、腕を組みながら言った。




「クロロホルムじゃねぇのか? よく映画とかで見るじゃねぇか。ハンカチに染み込ませて──ってやつ」




 だが、柏原はすぐに首を振った。




「ないわ。それじゃ眠らせるには効力が弱すぎる。フィクションみたいに一瞬で眠ることなんて、現実にはほぼ不可能よ」




「そ、そうなんですか……?」


 理沙が思わず声を漏らす。

 湊は、舞の表情を確かめるようにしながら、さらに言葉を重ねた。




「その“手”や“声”……誰だったか、わかるか?」




 舞は目を閉じ、眉をひそめた。

 記憶を手繰るように、かすかに唇が動く。




「……誰かの声に……似てた気がする。知ってる人……だったかも、しれない……」




 その言葉に、指宿がかすかに眉を動かしたことに、湊は気づいた。


 「けどよ、クロロホルムってのは、実際に使われてたんじゃねぇのか?」


 赤坂がなおも食い下がるように言う。

「昔のスパイ映画じゃ、ハンカチで一発だったろ」




 柏原は、腕を組み直して、やれやれといった様子でため息をつく。


「たしかに、かつては麻酔薬として使われていたこともあるわ。でも、強い毒性があるうえに、気を失わせるには相当量を吸わせなきゃならない。ハンカチ一枚で一瞬なんて、現実にはまず無理」




 湊が、その言葉を引き取る。


「仮にクロロホルムを使ったとしても、ハンカチに染みこませる程度だと、咳や吐き気、頭痛に襲われるくらいだ。菊池は女性だから参考値になるが、成人男性の場合は、意識を失わせるには十五分以上嗅がせる必要がある」




 そこまで言ってから、湊は舞の顔に目を向ける。


「それに――クロロホルムは皮膚刺激が強い。肌につけば赤くただれる。けど、舞さんの皮膚はどこも無傷だった。つまり……あり得ない」




 理沙が、そっと息を呑む。


「じゃあ、あの甘い匂いって……」




「甘い香りがしたのなら、薬剤の可能性はあるわね」


 柏原が目を細める。そこで、白鳥が静かに口を開いた。




「麻酔薬……という可能性は?」




 一同の視線が、一斉に白鳥に向いた。




「私は医療の人間ではありませんが……クロロホルムのような古い薬ではなく、たとえば、現代の麻酔薬のようなものなら、微量でも効果があるのではないかと」




「麻酔薬……」


 柏原はつぶやきながら、意味ありげに視線を逸らす。


「確かに、薬の種類によっては、ごくわずかな量で意識を失わせるものもあるわ。甘い香りがするタイプも存在する」




 湊は静かに頷いた。


「問題は、それを“誰が”“どうやって”持ち込んだか、だ」



「でもさ、その……麻酔薬なんて、そんな簡単に手に入るもんなのか?」


 小田切の素朴な疑問に、柏原が即座に首を振った。




「市販はされていない。基本的に医療関係者しか扱えないわ」




「……医療関係者、か」


 湊が呟いた瞬間、一同の間に沈黙が落ちる。

 視線は自然と、ある人物の名前を思い浮かべていた。




「あの……神村さんって、看護師って……いっていましたよね?」


 理沙が控えめに口を開いた。




「ああ。たしか、そう言ってたはずだ」


 湊がうなずく。柏原も腕を組み直しながら補足する。




「ただ、所属先や具体的な仕事内容までは明言してなかったわね。でも、もし手術室勤務の看護師、いわゆる“オペナース”だったとしたら――」




「オペナース……って、そんなに違うんですか?」


 小田切が首を傾げる。柏原は静かに説明を続けた。




「外来や病棟の看護師と違って、手術室に配属されている看護師は、麻酔薬の準備や管理に関わることがあるの。術中に使う薬剤の取り扱いも任されるから、麻酔に関する知識や経験がある可能性が高い」



「つまり、もし本当にオペナースなら、薬剤へのアクセス権も……?」


「そういうことになるわね。ただの看護師でも、可能性がゼロではないけど」




 湊の目が鋭く細められる。


「詩音が、舞を眠らせる手段として麻酔薬を使ったと仮定すれば――技術的には可能だった、ということか」




「それに……舞さんに施された“やさしい手つき”って、看護師の方なら自然にできるものなんじゃないかと思います……」


 理沙の小さな声が、部屋の空気をじんわりと沈ませていく。




 それでも、名指しで疑うにはまだ材料が足りない。

 湊も柏原も、それを理解しているからこそ、あえて沈黙を守っていた。


 「湊。探偵として、まずは原点に立ち返ってみるべきではないかしら?」




 柏原の言葉に、湊は小さく頷いた。


「……ああ。もう一度、あの現場を見直そう」




 二人は静かに広間を出て、廊下を進みながら言葉を交わした。


「詩音のことは……一度、死んだものとして扱うのが妥当だ」


「同感よ。現段階では、それがもっとも整理しやすい」




 たどり着いたのは、菊池舞が倒れていた部屋――。

 そこは、異様なほど“何もない”洋室だった。




 調度品も棚もなく、壁は打ちっぱなしのように冷たい。

 床にはカーペットが一枚敷かれているだけ。まるで、誰かの生活の痕跡を意図的に消し去ったかのようだった。




 湊は部屋をぐるりと見渡しながら、言った。


「七輪、密閉された窓、内側から施錠された扉……。この空間そのものが、“気づかれない死”のために設計されているようだ」




「ええ。“苦しまないで死ぬ”ことに、徹底的にこだわってる」


 柏原が残骸の近くにしゃがみこみ、カーペットの下をそっとめくる。

 床には軽い焦げ跡と灰が薄く散っていた。




「でも――この演出は、未遂に終わった」


「……それが、“誤算”なのか、“意図”なのか……」




 湊は視線を窓に向け、ガムテープの貼られた継ぎ目を指でなぞった。


「誰かが優しい手つきで菊池に麻酔薬を嗅がせた」


「第一に容疑者として浮かんでくるのは・・・・・・」



「神村詩音。だが、仮にそうだと考えたとき、1つ、不自然な点が浮かんでくる」




 柏原が立ち上がり、つぶやく。


「……すでに神村詩音は死亡している、という点ね」




「……神村詩音は死亡している。少なくとも、俺たちはそう“見せられて”いる。だが今は、それが真実だったとして話を進める。それで見えるものもある」




「その前提に立てば、詩音の関与は一度除外される。でも――彼女が残したあの言葉が、ずっと引っかかってるのよ」




 柏原は湊の方を見て、ゆっくりと言った。


「【可能性としてあり得ないことをすべて除外し、最後に残ったものがどんなに奇妙なことであっても、それが真実となる】」




 湊は小さく笑った。


「……皮肉だな。その言葉を、俺たちが使うことになるとは」


「でも、それが探偵という職業の本質でしょ?」


「ああ、そうだ」


「不可能なこと、あり得ないこと。その全てを実際にある、という前提に考え推理をする。そうして、現場の状況から明らかに不可能であること、起こりえないこと、本来あり得ないいこと。それらを全て除外していき、最後に残った1ピースが真実である」


「これは、俺に・・・・・・いや、俺たちに宛てられた挑戦状だ。神楽鏡夜からの、な」


 湊は深く息を吸って吐いた。


「――原点に、戻るか」


 使用人室に戻った湊と柏原は、静かに全員を見渡した。

 部屋には、舞を見守る理沙、小田切、凜、沙耶の姿もある。




 湊がゆっくりと口を開いた。




「さっきの捜索のとき――赤坂と白鳥はペアで行動していた。俺と柏原も同じくペア。……残る一人は、涼夏。お前だけが、最初から“単独行動”だった」




 指宿はわずかに笑みを浮かべたが、その表情は読み取れない。




「つまり、お前には“誰の目にも触れていない時間”があった。それを、確認させてもらいたい」




 柏原が続ける。


「その時間、どこで、何をしていたの? 誰かとすれ違った、何かを見た――そういうことがあれば、教えて」




 指宿はほんのわずかに首を傾げると、視線を正面に向けた。




「ええ……いいわ。話すわよ、順を追って。……あなたたちが、納得できるように、ね」




 その声には、どこか楽しんでいるような響きが混じっていた。




 柏原が気配を読むように微動だにせず見つめ、湊もまた、目を逸らさなかった。

 この時間、この空気――それこそが、核心に触れる前の緊迫の前触れだった。

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