涼夏は、皆の視線を正面から受け止めながら、ゆっくりと口を開いた。
「私が一人で見に行ったのは、北側の通路とその周辺よ。舞さんが最後に向かった場所って、たしか二階の収納あたりだったわよね?」
誰も言葉を挟まない。
涼夏はそれを確認するように一度だけ視線を巡らせると、続けた。
「一応、収納の扉は全部確認したわ。古い建て付けで、少し硬かったけれど。その奥に抜け道があるかもって思って、床板も軽く踏んでみたりして……」
「で?」
赤坂の短い声に、涼夏はわずかに口元を緩めた。
「もちろん、異常はなかったわ。誰の気配もなかったし、音もしなかった。でも……なんとなく、風の流れが変だったの。微かに冷たい空気が流れてきて……ああ、この辺りに窓があるんだなって思った」
「……それだけ?」
柏原が問うと、涼夏はうなずく。
「ええ、それだけ。あとは、誰にも会わなかったし、何も見ていないわ」
その語り口は終始落ち着いており、むしろ不自然なほど冷静だった。
言葉に詰まることもなければ、記憶を辿るような間もない。
まるで――“すでに用意されていた台詞”のように。
湊は黙ったまま、涼夏の目を見ていた。
その奥にあるはずの“揺らぎ”を、探すように。
だが――彼女の瞳は、湖面のように静かだった。
沈黙が少し続いた。
そんな沈黙を破ったのは、柏原だった。
「涼夏。……そのとき、時計は持っていた?」
涼夏は小さく首をかしげた。
「時計? 持ってないわ。でも、感覚的には……そうね、たぶん十分くらいかしら。あまり長居はしていないつもり」
「十分で、北側の収納を一通り調べて、床を踏んで、風の流れまで確認した。それだけじゃない。窓があることまで把握して……そのあとに、私たちと合流したのよね?」
「そうなるわね。何か変かしら?」
柏原は視線を逸らさずに答えた。
「変よ。だって、あなたが『この部屋から音がした』と言って、私たちを呼んだのは、舞が倒れていた部屋の前だった。それって、もう“音を聞いて戻ってきた”あとだったはずよね?それを含めて十分って……ちょっと短すぎない?」
涼夏は少しだけ口を閉じ、そして目を細めた。
「……たぶん、私、時間の感覚がずれてたのかもしれないわ。あのときは緊張してたし、寒かったし……。ほら、館の中って、時間感覚が変になるじゃない」
「便利な話だな」
赤坂がぽつりと呟いた。
その言葉には、皮肉と警戒の両方が含まれていた。
湊はそのやり取りを聞きながら、黙って指を組む。
すでに、いくつかのピースが頭の中で形を成しつつあった。
涼夏の証言は、一見整っている。
だが、あまりに整いすぎている。曖昧なようでいて、突っ込まれたときの“逃げ道”が確保されている。
「――なるほど。少なくとも、“何かを隠している可能性”はあるな」
湊は、そう心の中でつぶやいていた。
涼夏が口を閉じたあとの室内には、再び静寂が満ちていた。
その中で、湊はただ黙って、舞の証言を思い返していた。
――甘い香り。
――優しい手つき。
――どこかで聞いた気がする声。
あれは、舞が断片的に語った記憶。
意識の境界で聞いた、誰かの“温もり”のようなもの。
だが、それらが具体的に誰かを指していたわけではない。
舞自身も、断言を避けるように「似ていた気がする」とだけ言った。
(似ていた気がする……)
その言葉が、湊の中でずっと引っかかっていた。
館の中にいる人間のうち、“優しい手つき”を自然に持っている可能性のある人物。
“甘い香り”を身につけている可能性のある人物。
そして、“穏やかな声”――。
――指宿涼夏。
その名が、湊の脳裏で静かに浮かび上がる。
もちろん、彼女だけが当てはまるわけではない。
だが、舞の証言が指す輪郭は、彼女の立ち姿と重なってしまうのだ。
(甘い香りそのものは、麻酔薬という可能性もある。そう考えると、指宿涼夏だけとは限らない、か。だが・・・・・・)
「……湊?」
柏原の声が、沈黙の中で響いた。
湊は小さくうなずくと、顔を上げた。
「舞の証言をもう一度、精査したい。あのとき彼女が言った“声”や“匂い”……そこに、なにか決定的な鍵がある気がする」
「でも、舞さん……まだ完全には回復していないのでは?」
理沙が控えめに問う。
湊は静かに目を閉じてから答えた。
「大丈夫だ。……今なら、聞ける気がする」
その声は、どこか確信めいていた。
まるで、あと一手――“最後のピース”に手が届くことを知っている者のように。
使用人室の空気が、再び張り詰めた。
ベッドの上で横たわる舞は、まだ完全には体を起こせずにいたが、瞳にはわずかな意志の光が宿っていた。
「……舞、話せるか?」
湊がしゃがみ込んで目線を合わせると、舞はかすかにうなずいた。
「……はい。少し、だけなら……」
柏原がそっと椅子を引き寄せ、舞の枕元に腰掛ける。
「無理にじゃなくていいの。でも、あのとき聞いた“声”や“匂い”のこと……。もう少しだけ、思い出せそうなことがあれば、教えてほしいの」
舞は目を伏せ、記憶の底を探るように眉を寄せる。
「……甘い匂いは、ほんとに……お菓子みたいでした。懐かしいような、でも、どこか冷たい感じもあって……。誰かが昔、つけてた香水に……似てた気がする」
そう言いながら、舞はそっと唇を噛んだ。
「それから……声。あのとき、耳元で……“大丈夫”って言われたんです。優しい声で、静かに、あたしを安心させようとしてくれて……」
「その声は……誰かに似ていた?」
湊の問いに、舞は苦しげに目を閉じた。
「……誰かに似てた、気がするんです。でも……違うって思いたかった。だから、名前を出すのが……怖くて……」
そのとき、舞の視線が、ふと部屋の隅にいる一人の人物を捉えた。
わずかに硬直する。だが、その名は口にされなかった。
「……たぶん、あの人じゃない。そう思いたかったんです」
理沙がそっと舞の手を握った。
「いいんですよ。ゆっくりで。思い出したくないことは、無理に言わなくていいんですから」
柏原は視線を湊に送った。湊は静かに頷いたが――。
その心の中では、舞が見た“その視線の先”を、はっきりと覚えていた。
疑惑の線は、限りなく濃くなっていた。
舞の声が途切れたあとも、部屋の中には言葉がなかった。
誰もが、その視線の先――舞が無意識に見ていた人物――を意識していた。
だが、誰も何も言わない。
言葉にすれば、その疑念が現実になってしまうようで、全員が沈黙していた。
湊はゆっくりと立ち上がり、視線を宙にさまよわせながら、事件の全体像を頭の中で整理し始めた。
舞が語った“証言――。
甘い香り。
優しい手つき。
そして、「誰かに似ていた気がする」という、女性の声。
どれも曖昧で、断定的ではない。
しかし、だからこそ逆にリアルだった。舞は“知っている人物ではない”と断言しなかった。
むしろ、“そうであってほしくない”という、感情の揺れを滲ませていた。
そして――舞が最後に視線を送った相手。
(舞は、見ていた……だが、その名を呼ばなかった)
その沈黙は拒絶か、あるいは迷いか。
いずれにせよ、舞の証言と涼夏の特徴が重なりはじめているのは、間違いなかった。
柔らかで落ち着いた声。
沈着な性格と、距離の取り方。
そして、事件の発見者でありながら、最初に現場にいた唯一の単独行動者。
(優しい声、という言葉の裏に、何があったのか……)
事件はすべて“演出”だった。
誰にも気づかれず、静かに、確実に――そうやって殺意を貫くための仕掛け。
そして、観客が“それ”に気づいたときには、すでに遅い。
「……もう一歩だ」
湊がつぶやくと、柏原が顔を上げた。
「見えたの?」
「まだ、断定はできない。でも――見えてきた。“その人物”の姿が」
視線は一人の人物に向かいかける。
だが、まだ確証はない。あと一手――決定打となる証言、もしくは証拠が必要だった。
それでも、湊の表情には明らかな変化があった。
核心は、すぐそこに迫っていた。
湊がつぶやいた。
「大体はつかめた……。だが、解決しなければならない問題が、まだ残っている……」
その言葉に、柏原が頷く。
「……アリバイ、ね」
「ああ。第五の事件――の襲撃のときだけ、特定の人物に“単独行動”があった。だが、それ以前の事件は――そもそも、その人物が館に到着すらしていなかった」
湊の目が鋭さを帯びる。
「もしこの一連の見立て殺人を、たった一人でやったと仮定するなら……その矛盾を、どうにかしなければならない」
「決定的な矛盾。つまり、物理的に不可能なはずの犯行」
柏原の声には、冷静な重みがあった。
赤坂が腕を組みながら首を傾げる。
「どういうことだ? つまり、その犯人は舞の事件以外には関与していない、ってことになるのか?」
「いや、そうとは限らない」
湊が即座に否定する。
「仮に、協力者がいたとしたら――その矛盾は解消される」
「協力者、ねぇ……。でも、俺じゃねぇぞ?」
赤坂が肩をすくめた。
「そうなると、最初から館にいて、残ってるのは沙耶の嬢ちゃんくらいだが……あの娘にそんな器量があるとは思えん」
湊は小さく首を振った。
「ああ、分かってる。沙耶は、常に理沙と一緒に行動していた。しかも、神村詩音――いや、“彼女”も同様に……」
「……けれど、神村詩音は死亡しているわ」
柏原が静かに口を挟んだ。
その一言が、場の空気を一気に冷やす。
そう、“彼女”はすでに死亡したとされている。
ならば、協力者は存在しない。
だとすれば――事件は、矛盾したまま終わってしまう。
(彼女が完全な非協力者だったかは分からない。だが、アリバイがあったのは確実だ・・・・・・)
湊は、静かに唇を引き結んだ。
“常識”では説明できない。
だが――説明できる“何か”があると、彼は信じていた。
(この矛盾すらも、仕組まれているのだとしたら……)
「館に居なかったとしても、犯行が可能だとしたら・・・・・・」
湊の視線が、再び一点に向けられる。
「どういうことだ?」
「犯人が館に到着する前に、犯行準備を終え、偶然を装って合流することも可能性としてはあり得る」
「それこそ不可能犯罪ね」
「なぜだ?」
「・・・・・・このカードよ」
柏原が見せてきたのは、5枚のタロットカードだった。
「仮に、犯行準備を終えた後に偶然を装って合流したとするなら、このカードをどうやって遺体の近くに置いたのかしら」
「た、確かに」
「・・・・・・」
(【可能性としてあり得ないことをすべて除外し、最後に残ったものがどんなに奇妙なことであっても、それが真実となる】。なぜ神村詩音はそんなセリフを最後に残したんだ?)
まだ、確証には届いていない。だが、仮面の裏にある“真の顔”は、すぐそこまで迫っていた。