(【可能性としてあり得ないことをすべて除外し、最後に残ったものがどんなに奇妙なことであっても、それが真実となる】……)
神村詩音――否、彼女の“仮面”をかぶっていた何者かが、最後に残したその言葉が、今も湊の胸に刺さっていた。
あの時は、どこか芝居がかった言い回しだと感じた。
けれど今は、違う。まるで探偵への“挑戦”のように響いてくる。
湊は、ふっと息を吐きながらタロットカードに目を落とした。
5枚目――《DEATH(死神)》のカードが、静かにそこに佇んでいる。
藤堂、森崎、羽鳥、詩音、そして舞……。
否、舞は生きている。
ならば、この“死神”は、まだ誰か別の“死”を示しているのか? それとも――。
「……湊?」
隣で柏原の声がした。湊は顔を上げ、静かに頷く。
「考えていたんだ。あの言葉の意味を、もう一度……」
「詩音の、最後の言葉?」
「ああ……“すべてを除外して最後に残ったものが真実”なら、今まで俺たちが“除外していたもの”こそ、真相への鍵になる」
「たとえば……?」
「たとえば、“犯人はこの中にいる”という前提。あるいは、“事件が単独犯によるもの”だという前提。……そして何より、“神村詩音は被害者である”という前提だ」
柏原の瞳が、わずかに鋭さを帯びた。
「つまり……神村詩音は、そもそも“神村詩音ではなかった”可能性を?」
湊は静かに頷いた。
「そして、その仮面の背後には――この事件を動かす者の意志があった。……そう考えると、全ての矛盾が、一本の糸で繋がってくるんだ」
広間の空気が、静かに張り詰めていく。
全ての“演目”の幕が、ゆっくりと、真実へと向かって引かれ始めていた。
使用人室を静かに後にして、湊と柏原は廊下へ出た。
舞の証言は、すでに“仮定”を“確信”へと押し上げるに足る強度を持っていた。
だが、なおも立ちはだかるのは、第五の事件以前──つまり藤堂、森崎、羽鳥が殺害された三件についての“実行不可能性”だった。
「湊。仮に、指宿涼夏が第五の事件の実行犯だと仮定する。でも、それ以前の三件に関われない以上、“連続殺人の犯人”としては矛盾が残るわ」
「……ああ。本人が館にいなかった、という時点でアリバイが成立する。これは動かしようがない事実だ」
「だから、“もう一人いる”と考えるべきなのよね。“実行犯”とは別の、“設計者”が」
湊は立ち止まり、足元を見つめた。
脳裏に浮かぶのは、あの仮面の女──神村詩音の姿。
「詩音……いや、あいつが“看護師”であることは本人の口から語られた。でも、舞の事件の手口は、それ以上の知識が必要だ」
「つまり、“オペナース”であった可能性。……ごく一部の看護師にしか与えられない資格と経験。麻酔薬の扱いも、閉鎖空間での呼吸器リスクも含めて、素人が真似できるレベルじゃない」
「そして、詩音が自ら遺した言葉──【あり得ないことを除外すれば、残ったものが真実だ】。あれは、我々に対する“導線”だったのか……それとも、“警告”だったのか」
柏原が、ぽつりと口にする。
「……舞の事件の直前、詩音は何かを“覚悟”していたように見えた。何かが起きることを、知っていた顔だったわ」
「知っていたどころか、もしかすると──“起こすように仕向けていた”可能性すらある」
「舞の事件すら、彼女にとっては“脚本通り”だった……?」
二人の間に沈黙が落ちる。
「それにしても――変だと思わないか、柏原。“詩音の死”が、あまりにも早すぎる」
「ええ。もっとも“核心に近い”はずの彼女が、中盤で退場するなんて、芝居としてはアンバランス。……だから逆に、“舞台の主催者”だったのかもしれないわね。最後まで生き延びる立場ではなかった」
「もしくは──“生き延びられない理由”があった。協力者を使い捨てるような、冷酷な演出家ならば」
湊は小さく頷く。
「舞の事件が、全体のトリガーだ。あの事件を境に、全員の疑念の矛先が変わりはじめた。だからこそ、今――俺たちはその“舞台の輪郭”を明らかにする」
この先には、仮面の裏に潜む“黒幕の名”がある。
湊は、その正体に手を伸ばそうとしていた。
重い沈黙が一度、場の空気を冷やす。
柏原が口を開く。
「詩音が“脚本家”であるのは、ほぼ確実だと思うわ」
「ああ」
湊が静かに頷く。
「やつが繰り返していた言葉──『この館は舞台』。あれは、単なる比喩ではない。“劇”を仕掛ける者としての、無意識の言葉だったのかもしれない」
湊はしばし黙し、ゆっくりと口を開く。
「……柏原。“神楽鏡夜”という名前は、知っているか?」
その名に、柏原の瞳が鋭く細まる。
「──ええ。うち(警視庁)でもマークしている、犯罪計画者よ。事件を自ら実行するのではなく、他人を利用して“筋書き通り”に事件を動かす。そのため、現場に姿を見せることはほとんどない」
「その“神楽鏡夜”が、神村詩音になりすましていた……そう考えれば、いくつかの不可解な点が説明できる。特に、舞の証言と照らし合わせたときの──麻酔薬の使用や、その手際の良さ」
柏原が、わずかに顔をしかめる。
「でも、どうやって? 神楽鏡夜が詩音と入れ替わった経緯がわからない以上、断定は……」
「少なくとも、“詩音が本物ではなかった”可能性は高い。死亡推定時刻や死斑の状況から見ても、彼女が『既に死亡していた神村詩音』とは別人だった、という線は、否定しきれない」
そして、柏原が小さく口を開く。
「けれど、気になるのは──その鏡夜と、涼夏との関係よ」
「ああ」
湊の表情が引き締まる。
「指宿涼夏──いや、白鷺涼香。今回の事件の真犯人であり、かつて“白鷺館”で起きた一家心中事件の生き残り」
「その“過去”が、今回の事件の引き金になった……と?」
「おそらくな。彼女は一連の殺人を、“脚本”に従って演じた。だが──動機は、おそらくそれだけじゃない」
「復讐……?」
「あるいは、“完成された物語”を実現させるために、鏡夜と手を組んだ。自らの“死”すらも視野に入れた上で、この劇を選んだのかもしれない」
湊は、ふと立ち止まるようにして言葉を口にした。
「そもそも、だ。涼夏はどうやってこの館に来たんだ……?」
問い返すように、柏原が首を傾げる。
「……どういうことかしら?」
「小田切と高峯は、登山道を通ってこの館にたどり着いた。高峯は途中で足を負傷していた。それだけ厳しい道だったということだ」
「ええ、装備を整えた彼らでさえ、苦労して登ってきたのよね」
「白鳥と菊池は、駅で偶然出会い、レンタカーでこの館まで来た。二人が館に到着したとき、すでに“指宿涼夏”は館の前にいたんだ」
柏原の目に、かすかな緊張が宿る。
「……確かに、彼女は館の前に“居た”。倒れていたわけでもなく、助けを求めていたわけでもない。ただ“そこにいた”」
「ああ。問題はそこだ。彼女はレインコートこそしていたが、登山装備をしていたわけではない。手荷物もほとんどなかった。……そんな姿で、あの荒れた山道を登ってこれるとは到底思えない」
「つまり、“外から来た”わけではない、ということ?」
「そう考える方が自然だ。彼女は最初から、館のどこかに潜んでいた。あるいは、隠れていた。そして、誰かが来るのを待っていた。自分の“登場のタイミング”を」
柏原はゆっくりと目を伏せ、唇を引き結ぶ。
「……演出、ね」
「そうだ。偶然を装って現れ、自然に“参加者の一人”に溶け込む。最初から、“舞台の配役”が決まっていたのなら、理屈は通る」
「そしてその台本を書いたのが、神村詩音……いや、神楽鏡夜だとすれば」
「演者と演出家。指宿涼夏は、その舞台に立つ“主演女優”だったわけだ」
二人の間に、張りつめた沈黙が落ちた。
事実は、すでに演じられていたのだ。あとは――それを読み解くだけだった。
柏原はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「仮に、涼夏が誰かが来ることを見計らって館の前に立っていたとしたら──第1、第2、第3の事件のアリバイが崩れることになるわ」
湊は静かにうなずく。
「ああ。“居なかったこと”が、最大のアリバイだった。だが今は、その逆。“居なかったこと”が原因で、アリバイが成立しなくなった」
「その間に起こった三つの殺人──藤堂、森崎、羽鳥。どれも計画的に演出されていた」
「そして、“彼女”だけが、それら三つの事件すべてに関与していない、唯一の人物だった」
湊の視線は、どこか遠くを見るように天井へ向けられていた。
「だが、もし……それが“仕組まれたアリバイ”だったとしたら?」
柏原は鋭い眼差しで問い返す。
「仕組まれた、というのは?」
「館の中に潜伏していた。犯行を終えた後、外に出て“偶然を装って”現れた。そして、“私は犯人ではない”という前提を、最初から観客に植えつけたんだ」
「……演出としては、極めて巧妙ね」
「そうだ。観客、つまり俺たちや他の招待客にとって、“彼女は途中から来た人間”という印象が固定されていた。それが、視点の盲点を生んだ」
柏原が小さく息をつき、口元を引き締める。
「だとすれば、涼夏は──事件が始まるよりも前から、この“舞台”にいた。そして、舞台の幕が上がるその瞬間を待っていた」
湊は静かに頷いた。
「そのすべてが、“見立て殺人劇”の脚本通りに」
再び、沈黙。
二人の間に、事実が一つひとつ、静かに積み上がっていく。
それはまるで──舞台の幕が、次第に閉じていくようだった。
使用人室の静寂を破るように、湊の声が落ち着いた口調で響いた。
「……すべてが、脚本通りに進んでいた。殺人劇の中で、自らの姿を見せず、“姿なき犯人”を演じた」
柏原が頷き、補足する。
「そして、偶然を装って白鳥たちと合流し、“観客”の前に現れた……。最初から、舞台の一部だったにもかかわらず」
「アリバイがないということが、最大のアリバイになっていた。最初からいなかった──その事実が、彼女を“無関係”に見せていた」
「そして、彼女が“現れた”ことを見届けて……詩音は、死亡した。いえ、“舞台から退場した”」
「……まるで、“主役の座”を入れ替えるかのように、ね」
湊は目を伏せ、静かに言葉を続けた。
「その直後に起きたのが、舞の事件だ」
柏原が少しだけ唇を引き結ぶ。
「でも、それは失敗した」
「……いや、違う。失敗したように見せかけたんだ」
湊の声に、わずかな熱がこもる。
「恐らく、その“失敗”さえも、台本のうちだった。舞が眠らされ、密室で一酸化炭素中毒によって殺されそうになる──そして、“たまたま”それを涼夏が発見する」
「そうなれば、彼女は疑われない。“ヒロイン”として、“被害者を救った存在”になる」
「ああ。“姿なき犯人”が犯行を続けている……そう印象づけることで、すべての責任をそちらに被せることができる」
柏原が、静かに目を細めた。
「でも……一つ、決定的なミスを犯した」
「“声”、だ」
湊は短く答える。
「舞が聞いた“あの声”──『大丈夫』という、優しい囁き。あの一言が、すべてを壊した。……その“声”は、“知っている誰かに似ていた”。舞がそう感じてしまった時点で、“姿なき犯人”という構図は崩れる」
「つまり、“演出の破綻”ね。完璧だったはずの台本に、一行だけ──余計なアドリブが加わった」
「それが、“涼夏の正体”を暴く、決定的な鍵になった」
二人の間に、重たい沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は、もう迷いのないものだった。
仮面は、もう外れかけている。
すべての“演出”の幕が閉じる時が、いよいよ近づいていた。