皇帝の執務室のドアが乱暴に開け放たれる。無論そのようなことを出来るのは、この国でただ一人しかいない。
「──おや、お早いお戻りで」
謁見の間へと行ったかと思えば、すぐに戻ってきたヴィルジールを、エヴァンは笑顔で出迎えた。
ヴィルジールはエヴァンの前を無言で通ると、濡羽色の椅子に背を預ける。目の前の机には、ヴィルジールの印を待つ書類で山積みだ。
一番上にあった書類を面倒そうに手に取ると、ヴィルジールは柳眉を寄せた。
「……何のために貴様がいる」
エヴァンはニ、三度瞬きをすると、満遍の笑みで追加の書類を重ねて置いた。どれもこれも皇帝の裁可が必要な事案だというのに、全部やっておけと言わんばかりの反応をされるとは。いよいよ意識がどこかに飛びそうだ。
「帝国の民のために、日々働いておりますよ」
「お前は俺の下僕だ。勘違いをするな」
どうやらこのオヴリヴィオ帝国においての宰相とは、皇帝に次ぐ政治的権力を持つ者ではなく、年中無休で皇帝の手となり足となる者のようだ。
「怖い怖い。国と民のためでなく、皇帝陛下に尽くせと仰いますか。こんなに働いていますのに」
「無駄口を叩く暇があるなら働け」
エヴァンは今度こそ肩を落とした。
それからふたりの間には沈黙が流れ、各々の仕事を片付けていった。無理難題を言うヴィルジールと、皇帝が相手でも笑みを崩さないエヴァン。ふたりは子供の頃からの付き合いで、遠慮なく文句を言い合える仲だ。
ふと、エヴァンは手を止めてヴィルジールを見遣った。
「そういえば、聖女様はどうされたのです?」
聖女という単語に反応したのか、ヴィルジールの眉が微かに動く。
ヴィルジールは長い脚を組むと、顔を上げた。
「どうもしていない。魔力も記憶も喪失しているようだったが、あの小娘が本当に聖女なのか?」
隣国、イージス神聖王国が光を放ち、その直後に全てが消えたのは、つい五日前のことだ。至急編成した調査隊を向かわせようとした時、国境が人で溢れかえった。
そこにいた人々は、こう訴えたのだ。──聖女が聖王をころした。国も消した、と。
「……黄金の髪と菫色の瞳を持つ、とイージスの民は言っていたんですけどね」
「黄金だと?」
ヴィルジールは初めて表情を変えた。その拍子に手に持っていたペンのインクが漏れ、書いたばかりのサインが滲んだ。
「綺麗な黄金色の
穏やかなエヴァンの声を遮るように、ヴィルジールは席を立った。宝石のような青い瞳に光が差し、波打つように揺れる。
「……黒だ」
「はい?」
「俺の目には、黒色に映った」
片手で前髪を掻き上げたヴィルジールの表情を、エヴァンは息を呑んで見つめた。
◇
謁見の間で皇帝と顔を合わせ、テラスで少しばかりの話を終えた後、少女は元居た部屋に戻された。中に入るとセルカが手を前で重ねて立っており、扉が閉まると同時に頭を下げられる。
「おかえりなさいませ」
「……戻りました」
部屋に入ったはいいものの、そこからどうすればいいのかわからなかった少女は、助けを求めるようにセルカを見る。
セルカは察してくれたのか、無表情のまま一度だけ頷くと、先導するように歩き出した。その後ろをついて行くと、化粧台の前にある椅子に座るよう促された。
少女は大人しく座り、鏡に映る自分の姿を眺めた。
鏡越しに見る自分の顔を、これが自分なのだと思うことはできなかった。まるで他人の顔を眺めているようだ。顔も名前も知らない赤の他人を、初めて見た時のような、そんな気持ちで。
そこに興味は湧かない。幸薄そうな白い顔と薄い蜂蜜色の髪を見て、少女は瞼を下ろした。
「見事な
セルカが髪を梳く感触がして、目を開ける。
鏡越しに映るセルカは、壊れ物を扱うかのように、丁寧に少女の髪を梳いてくれていた。
「私はそうは見えないのですが」
「光の束を集めたようで、とても美しいです」
髪を見つめるセルカの眼差しは、さっき会った時よりも少しだけ柔らかくなっているような気がした。
少女は梳いてもらった髪に触れた。手入れをしてもらったからか、さらさらになっている。窓から差し込んでくる陽を受けて、今は黄昏色だ。
「私は、聖女なのでしょうか」
「そのようにお見受けいたします」
少女の小さな呟きに、セルカは事務的な返事をした。
少女は陽色の髪に視線を落としたまま、ぽつぽつと声を落としていく。
「聖女とは、何なのでしょうか」
「唯一無二の力を持った、なくてはならない御方です」
「聖女は、何をするのですか」
「聖なる力を持って、邪なる魔を退け、浄化してくださいます」
「聖女は、何をしたのですか」
目の前の引き出しに髪の手入れ道具を入れていたセルカの手が止まる。それから少女を振り返ると、驚いた顔を見せた。
「……本当のことを、私は存じ上げません」
「聖女は、聖王という方を殺め、国を滅ぼしたのでしょうか」
「オヴリヴィオの民である私には、知る術がございません。ですが、イージスの民はそのように申しているそうですね」
少女は手のひらを握りしめながら、意を決したように顔を上げた。
「では、その方たちの元に、私を連れて行ってくださいませんか」
セルカが理由を尋ねるよりも先に、少女が席を立った。迷いのない足取りで出入り口へ向かうと、扉の向こうにいる見張りに声を掛けている。
その背をセルカは呆然と見つめていた。目を醒ましてから不安げな顔をしていた少女が、毅然とした態度で騎士と対話をしていたからだ。