イージスの民と聖王、そして聖女であった自分。民の怒りと哀しみをこの身で受けた時、どうして自分は何もかもを忘れてしまったのだろうと思った。せめて記憶だけでもあったのなら、どんなによかったことか。
ヴィルジールは何か知っているだろうか。滅んだ国と聖王と、聖女のことを。
少しだけ勇気を出して顔を上げてみると、青い瞳とぶつかる。空よりも濃く、海よりも淡い色合いのそれは、見つめられるだけで凍ってしまいそうな気がした。
「聖王とはどのような方なのか、ご存知ですか?」
「イージス神聖王国。その頂点に立つ者のことだ」
一国の君主。それが聖王であるとヴィルジールは吐くと、窓の外へと目を向けた。
月明かりがヴィルジールの端正な顔を照らしている。その横顔は色のない陶器のようだが、夜空を見つめる眼差しはほんの少しだけ柔らかい気がした。
「会ったこともなければ、見たこともない。だが、聖王とその傍に立つ聖女には、特別な力があると聞く」
トクベツ、と少女は唇を動かした。その力で、国を滅ぼしてしまったのだろうか。
「聖女とは、何なのでしょうか」
「国によって、解釈や位置付けが異なる。この国では神の恩恵を受けた力で、奇跡を起こした者に与えている称号だ」
もう何百年もいないが、とヴィルジールは言い捨てると、ゆらりと立ち上がった。
「イージス神聖王国の聖女は、比類なき力を持つと聞く。その特別な力が、国をも滅ぼすことができるというなら、試してみたいことがあったが……記憶も魔力も喪っているとなると、話は終わりだ」
冷ややかな声に、少女は思わず喉を鳴らした。炯々と異彩を放つ鋭い瞳に見下ろされ、身体が強張っていく。
ヴィルジールは冷然とした無表情で少女を見つめながら、形の良い唇を薄らと開いた。
「夜が明ける前に、この国から出て行け。難民の救済は許可してやったが、罪人に衣食住を提供する利点が俺にはない」
「───っ、」
「安心しろ。この国にお前の処刑台はない。亡国の民に見つかる前に、どこへでも行くがいい」
ヴィルジールはマントを翻すと、一瞥をくれて無言で部屋を出て行った。
広い部屋にひとり残された少女は、自分の手のひらを見つめながら、ゆっくりと閉じていった。
(わたしは、なんなの)
イージス神聖王国という国と王を、滅ぼしたかもしれないのが自分で。聖女であった自分には、特別な力があったという。だけれど、今の自分には名前も記憶も失ければ、魔法を使うことすらできない。
ならば自分には何が出来るのか。これから何をするべきなのか。そうこう考えているうちに、ひとつだけ思い浮かんだ。
全てを喪った場所に行けば、何か思い出すのではないかと。
記憶を喪う前の自分は、前向きで行動力のある人間だったのだろうか。そう思ったのは、思い立ったらすぐに動かなければと思う自分が居たからだ。
ベッドから抜け出した少女は、部屋のドアノブに手を掛けた。恐る恐る回すと簡単に開いた。
部屋の外に見張りの姿はない。聖女の力も記憶も喪っている自分にはもう何の価値もないから、人を割くことをやめたのだろうと思う。
少女が部屋の外へと一歩踏み出すと、夜色の大きな布に視界を覆われた。頭から掛けられそれは、外套のようで。隙間から見える足元を見て、誰からの厚意なのかはすぐに分かった。
紺色のロングワンピースに、黒いタイツとシューズ。首から下がるリボンの下には、フリルがついた白いエプロン。この城で働くメイド達が着ている衣服だ。
「セルカさん」
少女は顔を上げて、フードを捲った。
「……こんな夜更けに追い出すだなんて、陛下は酷い御方にございますね」
セルカは手に持っていた包みを差し出してきた。見た目は小さいが、受け取ってみるとずっしりと重い。
「路銀と携帯食が入っております。困ったことがあったら、セネリオ伯爵家をお尋ねください。きっと力になってくださいます」
「ありがとうございます。セルカさん」
少女はこぼれるような微笑を飾りながら、深々と頭を下げた。罪を犯した聖女だった自分に、セルカだけが温かく接してくれた。
少女は外套を深く被り直した。もっと話したかったが、行かなければならない。
振り切るように背を向けたその時、バタバタと騒がしい足音と共に、数名の騎士が駆けてきた。何かあったのか、彼らは全員剣を抜いている。
セルカが毅然とした態度で前に進み出て、少女を庇うように立った。
「一体何事ですか」
「りゅ、竜みたいのがっ……」
「竜?」
眉を顰めるセルカと、信じられないものを見たような顔をしている騎士たちを、少女は交互に見る。
「見たこともない魔物が出たんだよ!城下に!」
「皇帝陛下直々に、全騎士団に出撃命令が出された。即位以来初めてだ」
「…そうでしたか。ご武運を」
セルカが頭を下げると、騎士たちは駆けて行った。
「竜とは何ですか?」
「実物を見たことはありませんが、大きな体と翼を持ち、口から炎を吐く魔物と聞いております。魔物の多くは陛下の魔力を恐れ、近づいてきませんが」
セルカは「まさか城下に現れるなんて」と呟くと、口元に手を当てながら少し俯く。
(──行かなきゃ)
少女は心臓が早鐘を打っているのを感じ、胸に手を当てた。そのままゆっくりと息を吸ってから、脚を動かす。
「聖女様?今外に出られるのは──」
少女は振り返らずに、勢いよく走り出した。