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第8話


 竜が何なのかは分からない。見たこともなければ、聞いたことがあるような気がするだけだ。ただそれだけのことだけれども、何かが──誰かが、少女の心を急き立てている。


 騎士の後を追って行くと、大きな城門の向こうで煙が上がり、建物が燃えているのが見えた。そこは昼間歩いた通り道だ。


(こんな、城の近くで…)


 緊急事態だからなのか、少女が門の外へ出ても誰も気に留めていないようで。髪が見えないよう外套の上部を摘み、下に引っ張りながら、奥の人集りへと向かう。


 門を出て橋を渡ると、淡く光る半円型の薄い膜が張られていた。中では白い服を着ている人が治療に当たり、外では騎士が護衛をしているようだ。


「──クソッ、治癒師が足りない…!城へ伝達を!」


 そこは民の避難所のようだ。無数の子供の泣き声が聞こえるが、逃げる途中で傷を負った傷病者も多く混じっているようだった。


「っ……ひどい…」


 想像を絶する避難民の多さに、二の句が継げられない。

 ドームの中は逃げ惑う避難民で埋め尽くされており、足の踏み場もないような現状だった。


「お願い!うちの子を先にっ…」


「俺が先だ!足が痛くて死んじまう!」


 我先にと声を上げる人たちは山ほどいるのに、それに対して治療をしている白服の人たちが圧倒的に少ない。


 少女はその光景を目に焼き付けてから、振り切るように奥へと向かった。



 燃え盛る建物の間を走り、声がする方へと直走る。暑くて堪らなくて、汗が滝のように流れたが、足を止めるわけにはいかない。


 散らばる無数の瓦礫の隙間では、動かなくなった人も混じっていた。人の身体の一部だったものも、酷い怪我をしている人たちまで転がっている。


「あ、あんたはっ………」


 通り過ぎようとする少女に、声を掛ける人もいた。怯えたような眼差しで何かを訴えかけられたが、その人はそれ以上声を出すことなく、涙を流しながら事切れる。


 泣きたくなるような光景だ。凄まじい炎に、思わず呻きそうになる錆びついた匂い。そして、辺り一面に転がるのは、動かなくなった人たちの山だ。


 少女は胸の前で手を握りしめ、そっと目を閉じた。どうしてそうしたのかは分からない。息をするように、身体がそう動いたのだ。


 その時、その瞬間。大きな羽ばたきの音が響き渡り、少女の身体を浮かせたかと思えば、勢いよく後方に吹き飛ばした。


 少女は背中を打った衝撃で顔を顰めたが、すぐ近くから悲鳴が聞こえたので、弾かれたように振り向くと、避難しようとしていたらしい親子の姿が目に入る。


「い、いやあああああ!」


 親子は少女ではなく、少女の後ろにある何かを見て叫んでいる。自分を覆う大きな黒い影に気づき、少女は顔を上げた。


「(───贄を寄越せ。我の力の源を)」


 頭に低い声が響く。その声の主は、目の前に現れた大きな“何か”のものに違いない。大きな深紅の瞳が、少女の目を捕らえている。


(───竜……?)


 それは光を纏う、黄金色の大きな生き物だった。蝙蝠のような翼を羽ばたかせながら、静かな眼差しで少女を見下ろしている。


 この生き物が、竜というものなのだろうか。黄金色の巨躯に、全てを引き裂いてしまいそうな鉤爪。鰐のような口元には鋭い歯が並び、長い尾の先は紫色を帯びている。


 竜の咆哮が空を揺らす。その衝撃に顔を顰めていると、竜が口を開けて光を集めていた。


(───何かが、来るっ…)


 竜が大きく胸を膨らませると同時に、口から燃え盛る炎を出す。もう終わりだと叫ぶ民の声を聞きながら、少女はそれをただ見ていた。


(わたしは、知っている。この、炎を……)


 全てを燃やさんとする炎の嵐を前に、どうして冷静で居られたのかは分からない。けれど、これだけは判っていた。


(わたしは、あなたをしっている)


 少女は迫りくる焔と、その向こうに佇む光の獣を見てから、胸の前で手を組んだ。ゆっくりと息を吸って、目を閉じる。


(祈れ。祈れ──…)


 湧き出る言の葉を胸の内で繰り返したその時、冷気を纏う風が身体の横を駆け巡った。


 目の前で何かが粉々になるのを感じて、少女は目を開けた。

 そこには青いマントをはためかせながら、竜と少女の間に立つ男の姿がある。


 この国から出て行けと言い捨て、城の奥へと消えた男の背に庇われているのを見て、少女は目を見張った。


(どうして、皇帝陛下がここに…?)


 突如目の前に現れたヴィルジールは、少女に一瞥もくれずに竜を見据えていた。


「報告を聞いて来てみれば……貴様は何だ?」


 苛立ちを宿した声に、竜は何も答えなかった。少女へと向けていた紅い瞳をヴィルジールへと移すと、三日月のように細める。


「(跪け、王の子よ)」


「……王の子?」


 竜はまた口を開け、炎を生成し始めた。繰り出されようとしている炎を迎え撃つ為か、ヴィルジールは左手に冷気を纏わせたが──竜は口を開いたまま飛翔した。 


「まずい──」


 飛び立った竜が向かう方角を見て、ヴィルジールは馬に飛び乗る。馬上から少女を一瞥したが、その眼差しは無事を確かめるような優しいものではない。


「時が惜しいが、お前も来い」


 ヴィルジールは少女に手を差し出した。その手を拒むことは許さないと言わんばかりの口調で。


 少女は黙ってヴィルジールの手を取った。

 ヴィルジールは少女の手を強く引き、自分の前に横に座らせると、手綱を握った。そして、馬の腹を蹴る。

 竜が向かう方角には、数多の民がいる避難所があるのだ。

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