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第9話


 馬を走らせること数分。避難所の手前で、空を舞っていた竜が地に降り立つのが見えたところで、ヴィルジールが馬の手綱を引いた。


「まさか魔法障壁が破られるとは」


 魔法障壁とは何かを尋ねる必要はなさそうだ。彼の目を追った先には、ヒビの入った光のドームが炎に包まれている。


 それは避難所と呼ばれていたもので、中にはたくさんの人が逃げ込んでいた。それが今、竜によって襲われている。


 民の悲鳴が響き渡る中、騎士たちが必死に応戦していた。だが、巨大な竜の口から簡単そうに生み出される火の玉に為す術がないのか、彼らはドームを内側から守るように両手を上げ、様々に光を放っている。


「ここで俺の馬を見張っていろ。馬を死なせたらお前も殺す」


 ヴィルジールはマントを翻しながら軽やかに地面に降り立つと、右手で氷の剣を生み出した。冴え冴えとした光を放つその刀身からは凄まじい冷気が感じられる。


 きっと、あの竜を討伐しに行くのだろう。襲われている民を救けるために、皇帝自らが。


 これまでの炎とは比にならない熱気を含んだものが、竜の口から生成されようとしている。それに気づいたヴィルジールは氷の剣を巨大化させ、走りながら竜に向けて解き放った。


 ヴィルジールの氷剣と竜の炎が激突する。その剣は竜の炎に飲み込まれるのではないかと思われたが、突き刺すように炎の中に入ると、凄まじい光を放ち、辺り一面に光る粉雪を降らせた。


「──貴様は誰の許可を経て、汚らしい炎を俺の民に吐いている」


 煌々と舞う氷の残骸を浴びながら、ヴィルジールは竜を見据えた。


 炎の戦場と化した城下に現れたヴィルジールを見て、人々は言葉を失くした。


 逆らう者には罰を、罪を犯した者のことは氷漬けにしてきた、慈悲の欠片もないと云われている皇帝が、真っ直ぐに避難所へ向かって来ているのだ。


「こ、皇帝陛下……」


「皇帝陛下じゃ…本物じゃ…」


 霧が立ち上る中、表情一つ変えずに竜と対峙したヴィルジールは、人々の目には神のように映っていた。


 ヴィルジールは左手を足下に翳す。その瞬間、地面から無数の氷の柱が出て、民とヴィルジールとの間に巨大な氷の壁が作られた。


「──アスラン!生きているなら早く民を城へ」


 ヴィルジールは竜を見据えたまま声を張り上げる。すると、氷の壁の向こう側──避難所に居たらしいアスランが、部下たちに支持を出すのが聞こえた。


 少女は馬から降りた。羽織っていた外套を馬に掛けてやり、ヴィルジールの元へと駆け出す。


 どうしてかは分からないが、止めなければならない気がしたのだ。あの竜を──いや、ヴィルジールを止めなければ、よくないことが起きると、自分の中の何かが告げている。


「──おやめください、皇帝陛下っ…!」


 少女が制止の声を上げたのと、ヴィルジールが氷の刃を竜に突き立てたのは同時で。竜の胴に穴を開けたかと思われたそれは、氷の細やかな粒子となり、竜の周りに散った。


「(奴には劣るが、中々の力だ)」


 竜はヴィルジールをじっと見ている。その軀に傷はひとつもなく、鋼のような鱗がただ輝いている。


「……俺を誰と比較している」


「(我が喰らってやった、愚かな男のことよ)」


 竜は小さく喉を鳴らすと、ヴィルジールの後を追ってきた少女へと目を向けた。その目は懐かしいものでも見るかのように細められる。


「(──お前は、あの時の聖女だな)」


 ヴィルジールが驚いたように振り返る。追いかけてきていたことに気づいていなかったのか、少女を見ると目を見張っていた。


 竜はぐぐっと首を下げ、少女の顔を覗き込んだ。近くで見ると大きな宝石のような真紅の瞳には、まだ見慣れない自分の姿が映っている。


 自分なのに、自分であると受け入れられない顔には、困惑の色が浮かんでいた。


「…やはり、あなたは私を知っているのですね」


「(知っているとも)」


 竜はきゅるきゅると笑うと、ゆっくりと首を起こした。


「(よく聞け、王の子よ)」


 そう呼ばれる理由がわからないヴィルジールは顔を顰める。


「(──その聖女は、大罪を犯した)」


 竜は愉しそうな声を響かせると、巨大な脚を上げ、ヴィルジール目掛けて鉤爪を振り下ろした。


 竜の爪がヴィルジールの肌を抉る。片膝を着きながらもヴィルジールは右手を上げたが、その手から氷が生まれることはなく、彼は地面に沈んだ。


 少女はヴィルジールに駆け寄った。


「皇帝陛下っ…!!」


 ヴィルジールは左肩から腹部にかけて大きな傷を負っていた。止めようにも両手では押さえきれないほどの傷口からは、ごぽごぽと血が流れ出てきている。


「(なかなかの味だな。聖女の血肉には劣るが)」


 竜は爪に付着した血を舐めとると、満足そうな様子で再び空に上がる。そして、勝利を思わせる声を空に響き渡らせると、翼を羽ばたかせながら雲の向こうへと消えた。 


 少女は苦しげに呻くヴィルジールの顔を覗き込んだ。


「陛下…陛下、私の声が聞こえますか?」


 ヴィルジールは少女に応えるように一度だけ目を開いたが、すぐに閉じてしまった。


 このままではヴィルジールは死んでしまう。どうしたものかと思ったその時、青い髪の騎士が血相を変えて駆けつけてきた。


「──ジル!っ…くそ、さっきの竜にやられたのか!」


「アスラン、さん…」


「俺の名を呼ぶな!忌まわしい聖女め!」


 アスランはヴィルジールの傍に膝をついていた少女を勢いよく突き飛ばすと、くしゃりと顔を歪めた。彼の後ろからは白服の集団が、疲弊した様子で向かってきている。

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