「思い出したのは、力の使い方だけか?」
「あの時は必死だったのです。もう一度できるかは分かりません」
ヴィルジールは「そうか」と吐くと、夜空へと目を移した。
──あの時。ヴィルジールの命の光が消えかけていた時、失いたくないという想いに、何かが応えた。
それが奇跡を起こしたのだ。だから、使おうと思って使えるものではない。
(……やはり、私は聖女だったのね)
少女は自分の両手を眺めた。このちっぽけな手は確かに光を集め、ヴィルジールの傷を塞いでいた。目も眩むような光の世界を、今でもはっきりと憶えている。
「おい」
ヴィルジールの声が降る。顔を上げると、どこか遠くを見るような眼差しをしているヴィルジールと目が合った。
「何か欲しいものはあるか」
「欲しいもの、ですか?」
「ああ。俺の傷を塞ぎ、民の傷も癒すと、国土に巨大な結界を張っただろう。その褒美だ」
少女はぱちぱちと目を瞬いた。ヴィルジールの手を握り、祈りを捧げたことしか憶えていないからだ。実は自分ではない他の誰かが、同じタイミングでやったのではないかと思ってしまう。
「………何も、思いつきません」
「無欲だな。聖女だからか」
ヴィルジールに聖女と呼ばれたことに驚き、少女は目を見開いた。
「私を聖女とお認めになるのですか?」
「あの力を身を以て知った俺に、嘘を吐けと?」
憮然と言い返すヴィルジールに、少女は戸惑う。
「い、いいえ…」
ヴィルジールはふっと息をこぼす。どうしてか、彼の表情は少しだけ軋んだように見えた。
それから暫くの間、ヴィルジールは首を捻り、顎に手を当てながら宙を見つめていた。そして数分の沈黙のあと、納得がいくものを見つけたのか、少女と向き合った。
「──名を、くれてやる」
少女は首を捻りながら、もう一度聞き返した。
「名前、ですか?」
ああ、とヴィルジールは頷く。それから彼はテラスの下に広がる街へ目を向けた。
「名を与えるということは、即ちこのオヴリヴィオの民になるということだ。喪われた記憶は、過去のものでしかない。これから先の人生は、この国で過ごすといい」
「………っ…」
「無論、他の国に行くと言うなら止めはしないが」
ヴィルジールは見間違いかと思うほどほんの小さく笑った。どこか皮肉なその笑みは、彼らしい。
思いがけない恩賞が嬉しくて、黙っていたが──急に力が抜けて、思わずこぼしてしまった。
「……ありがとう、ございますっ…」
奇跡のお返しに、ヴィルジールは名を贈ってくれるという。
それは自分の名前すら憶えていなかった少女にとって、暗闇に差し込んだ光のように思えた。道はこの先にもあるのだと示す、導きの灯火。
目の縁にじわりと涙が浮かぶ。落とすまいと瞼を閉じたが、それは逆効果だったようで。
「……何故泣く?」
はらはらと落ちていく涙と、泣き出した少女とを交互に見るヴィルジールは困った様子だ。
「ここに居ていいのだと、言われたようでっ…」
「あの時は悪かった。追い出すようなことを言って」
ヴィルジールは不機嫌そうに前髪を掻き上げる。短いため息を吐くと、一度だけ少女の頭を優しく撫でた。
「この国の民を守るのが、俺の責務だ。他国から逃げてきた難民どもを受け入れ、事情を聞いて──その元凶であるかもしれない者を黙って受け入れることはできなかった」
ヴィルジールは少女の細い肩に片手を添えると、ぎこちない表情を浮かべた。
「だから、見つかる前にどこかへ行ってくれたらと、思っていたんだが」
「っ……う、ううっ……」
本当は、追い出したいわけじゃなかった。誰もが口を揃えて罪人だという存在を引き入れては、やがて何か起こり、自国の民が巻き込まれるかもしれないからと。
見つかったら、酷いことをされるかもしれないから──だからその前に、逃げてくれたらと思っていたらしい。
冷たく吐かれた言葉に隠されていた意味を、今更ながら知る事実に、ただ涙があふれる。
どうして生きているのかと問われた時、何も言い返せなかった。罵声を浴びせられ、石を投げられ、酷いことをされても──自分は空っぽだったから、犯してしまった罪を忘れていたことに謝ることしかできなかった。
そんな自分に、生きていいのだと言ってくれたのだ。この国の頂点に立つ人が。
暫くの間、ヴィルジールと少女は互いに無言のまま向き合っていた。長い沈黙がふたりの間に横たわっていたが、やがて先に口を開いたのはヴィルジールの方だった。
「───ルーチェ」
それは、とても優しい響きをもって放たれた。
「顔を上げろ。──ルーチェ、これがお前の名だ」
「ルー、チェ…」
言われた通りに顔を上げると、冬色の目に再び捉えられた。
「お前の光に、俺は命を救われた。だから、光という意味があるこの名を贈る」
ヴィルジールは夜だというのに眩しげに目を細めながら、嘘偽りのない口調ではっきりと告げた。
少女は胸の内で、何度もその名を繰り返した。
(──ルーチェ。これが、これからのわたしの名前)
たまらなく嬉しい贈り物に、少女は何度も頷く。そして、赤くなった目でヴィルジールを見上げる。
星空を背に佇むヴィルジールは、一枚の絵画のように美しかった。