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第20話


 ヴィルジールの鼓膜を揺らすには、足りないくらい小さな音で。届くかどうか分からない距離だったというのに、耳に届いていたようだ。


 ルーチェ、と唇が動いたのをはっきりと見て取れた。


 ヴィルジールは軽やかに柵を飛び越えると、上着のポケットに手を突っ込みながら、ルーチェがいるテラスの下にやってきた。


「まだ起きていたのか」


 月明かりに照らされながら、彼は口を開いた。


「はい。なんだか眠れなくて」


「それで、泣いていたのか」


 深い青色の瞳が細められる。ルーチェを見上げるヴィルジールの眼差しは、月の光のせいか優しく感じられた。


「……考え事を、していたのです」


「そうか」


 ルーチェは月へと目を逸らした。

 無数の星が散る薄闇に浮かぶ月は、微かな青を帯びながら、淡い光を纏っている。冴え冴えと聳えているが、ほのかな優しさも感じられるそれは、ヴィルジールに似ているように思う。


 冷たいようで、本当は温かいような…そんな気がしているのだ。


「降りてこないか」


 思いもよらない提案に、ルーチェは目を瞬かせた。


「受け止めてくださるのですか?」


「落ちてくると分かっている者を、黙って眺めるような人間に見えるのか?」


 ルーチェは微笑った。袖を捲って柵に手をつけ、大きく半身を捩らせながら登る。そこからヴィルジールを目掛けて、勢いよく飛んだ。


 テラスから飛び降りたルーチェを、ヴィルジールはしっかりと受け止めてくれた。落ちる寸前に閉じた目をゆっくりと開けると、視界いっぱいにヴィルジールの綺麗な顔がある。


「ありがとうございます」


 ルーチェは慌ててお礼を言い、ヴィルジールから離れようとした。だが、ルーチェを抱き止めた両腕は、今もその細い身体に回されたままで。


「……陛下?」


 ヴィルジールはルーチェの声でハッとしたように目を開くと、すぐに腕をほどいた。あろうことか、羽織っていた上着を脱いで、ルーチェの肩に掛けてくる。


「夜は冷えるから着ていろ」


 ルーチェはこくりと頷き、灰色のカーディガンに包まった。


 真夜中のヴィルジールは、昼や夕に会った時よりも静かで寂しげな印象を受けた。前髪を下ろしているせいで、翳りがあるように感じられるのかもしれない。


 ルーチェはヴィルジールとともに、庭園にあるベンチに腰を下ろした。水が流れる音に耳を傾けながら、隣を見上げる。


「どうして、この離宮の前にいらしたのですか?」


「散歩をしていたら、気づけばここに来ていて…泣いているお前が目に入った」


 ヴィルジールが散歩をする姿が想像できなくて、ルーチェは思わず笑みをこぼしていた。


「なぜ笑っている」


「いえ、その…陛下も散歩をされるのだなあと」


「一日中座っていたら、気がおかしくなるだろう」


 ヴィルジールはふっと口元だけで微笑むと、ぐるりと庭園を見回した。


「久しぶりに来たが、ここは相変わらずだな」


「いらしたことがあるのですね」


「子供の頃にな」


 ヴィルジールは少し前のめりになり、手を重ね合わせながら遠くを見始めた。その目は門の傍にある、白い石碑へと注がれている。


「ソレイユ宮。ここは聖女の伝説が残る場所だ」


 ルーチェも石碑を見遣った。不思議な造形で、中央に何か文字のようなものが刻まれているが、この距離でははっきりと読むことはできなかった。


「この国に聖女様はおられないのですか?」


「何百年もの間いない。それらしき力を持った者は稀にいて、我こそはと名乗りを上げていたが……どれもハッタリだ。人より治癒魔法が優れているだけで、それ以上のことは何も」


 魔法が使えるだけでも凄いことだとルーチェは思うが、それだけでは聖女となるのは難しいようだ。それほどまでに稀有な存在なのだろう。


「……ソレイユ宮、ですか」


「ここに来た聖女の名前だそうだ。祖先と盟約のようなものを結んだと聞いているが、詳しいことは分からない」


 遥か昔に、ここに現れた聖女──ソレイユ。彼女はヴィルジールの祖先と、何かを結んだ。それ以上のことは何も残っていないとヴィルジールは静かに語った。


 石碑に書かれている文字を見に行こうと思い、ルーチェは立ち上がる。ふわりと吹いた風が、花の香りを運んできた。恐らく庭園を埋め尽くしている、青い花のものだろうと思う。限られた人間しか着ていない色と同じであることに、きっと意味があるのだろう。


 ルーチェは石碑の前で足を止め、そこに書かれている文字に目を落としながら、指先でそっと撫でた。


「──青に誓いと約束を。ソレイユ様は青色がお好きだったのでしょうか」


「そう書いてあるのか?」


 ヴィルジールが驚いたような声音で尋ねてくる。振り返ると、ヴィルジールは目を見張っていた。


「……?ええ、そのように書いてありますが…」


「同じ聖女だからか」


 ヴィルジールの言っていることがよく分からず、ルーチェは首を傾げた。自分はただそこに書いてあることを読んだだけだというのに。


 暫くの間、ヴィルジールは何かを考え込む様子だったが、答えを見つけたのかルーチェの元へと歩み寄ると、隣に並んで立った。その青い瞳は石碑へと向けられている。


「……記憶を喪っても、お前が培ってきたものは失われてはいない。ならば自分のことを知れば、記憶を取り戻すきっかけになるのではないか?」


「陛下…?」


 ヴィルジールが目を伏せ、それからルーチェと向き直る。


「ヴィルジールでいい」


「……ヴィルジール、さま? 自分のことを知るとは、どのような…」


「そのままの意味だ」


 ヴィルジールは辿るように視線を上げ、眩しげなものを見るかのように夜空を見上げる。


「近いうちに、出掛ける」


 そう呟かれた声に、ルーチェの耳は優しく撫でられた。


(で、出掛けるって……?)


 それが自分を知ることとどう関係があるのだろうか。


 何から尋ねればいいのか、何と尋ねるべきか。そう迷っていたルーチェの頭に、ヴィルジールの大きな手が乗せられる。


 顔を上げると、ヴィルジールの目が真っ直ぐにこちらを見ていた。彼はいつもの無表情で、淡々と静かに告げる。


「──無論、俺とお前の話だ。ルーチェ」

「っ……!」


 ルーチェは口をぱくぱくさせた。突然のことに、頭の奥がくらくらする。


 触れられて、見つめられている。それも一瞬ではない、今この瞬間も、ヴィルジールの手の温度を感じる。


 どれも初めてのことではないのに、どうしたらいいのか分からない。言葉どころか呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうだ。


 それは、どうしてなのか。

 その答えを探す間もなく、ヴィルジールの手は離れていく。


「……もう夜も遅い。早く部屋に戻れ」


「……ヴィ、ヴィルジールさまも」


 辿々しいルーチェの声に何か思うところがあったのか、ヴィルジールはとてもささやかな微笑を滲ませると、ふらりと右手を振ってから踵を返した。


 まるで、“またね”の挨拶のようだ。

 冷酷だと恐れられている男の意外な一面を見たルーチェは、どこからともなく現れたセルカに声を掛けられるまで、ヴィルジールの背中を見つめていたのだった。


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