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第64話


 ルーチェは大きく息を吸ってから、竜の名を胸の内で唱えた。


 聞いたこともなければ見たこともないその名は、ルーチェの中にいたソレイユの欠片が教えてくれたものだ。


 どうか救って欲しいと、解き放って欲しいと、ソレイユが願っている。


「──聖王エクリプス様」


 ルーチェは語りかけるように、はじまりの聖王の名をつぶやいた。

 ぴたりと、上空に居た竜の動きが止まる。


「あなたは愛する人たちを守るために、禁じられた魔法を使った。そして何十年、何百年と、途方もなく永い時を、ひとりで……」


 竜の赤い眼がルーチェへと動く。


「(…………ワタシ、ハ)」


 ルーチェは胸の前で手を重ねながら、遥か彼方に灯る光に向かって呼びかけた。人の心を喪ってもなお、愛するものたちとまた逢える日を希っていた、ひとりの男の想いに触れるように。


「エクリプス様、戦いはもうおやめください! ソレイユ様が悲しみますっ…!」


 カッと竜の眼が見開かれる。ソレイユの名に反応したように思えたが、その両眼はルーチェの姿を捉えたままだ。


 竜の咆哮が空を揺らす。陽色の翼がぶわりと広がり、ひとつ羽ばたきをしたかと思えば、次の瞬間には瞬くような速さで竜は急降下していった。


 陽光を跳ね返す鋭い鉤爪が振り下ろされる。


 ルーチェは隣にいるヴィルジールの身体を思いきり突き飛ばし、両腕を広げて立った。


「ッ……!? ルーチェッ───」


 ずくりとした鈍く重い痛みが、腹部から広がっていく。そこからこぼれるように何かが溢れていくのを感じながら、ルーチェは顔を振り上げた。


 竜の赤い眼が、ふるえている。積年の怒りや憎しみに満ちているようだが、怯えているようにも見えた。


「……エクリプス様。貴方は愛するものをいつくしんだその手で、誰かを殺めるのですか……?」


「(ワタ、ワタシハッ──)」


「……その手は、何のためにあるのですか」


 竜はもがき苦しむような声を上げながら、ルーチェを宙に吊り上げていく。声にならない凄まじい痛みに、ルーチェは顔を顰めた。


 それでもルーチェは、竜の瞳を見つめ返した。残りの力を託して消えてしまった、ソレイユの想いに応えるように。


「(──お前に何が分かるッ!私は全てを捧げ、愛しいものたちを守ったというのにっ…!なのに私は、何よりも愛していた者に置いて行かれっ…)」


 ぐぐぐ、と。ルーチェを貫く爪が、腹の中で動く。

 ごぽりと口から血が溢れ、赤が散る。経験したことのない痛みに思考が焼き切れそうだ。


「ルーチェッ!! 待っていろ、今──」


 ヴィルジールの声が背中に突き刺さる。咄嗟に突き飛ばしたヴィルジールが剣を握り立ち上がり、こちらに向かってくるのを感じて──ルーチェは右の手のひらを握り締めた。


 だが、誰かがヴィルジールを止めたようだ。


「陛下、なりません!!」


 聞こえてきたのはエヴァンの声だった。滲む視界で、エヴァンがヴィルジールを羽交い締めにしているのが見える。


「離せ!ルーチェがっ…」


 ヴィルジールは手のひらに血が滲む勢いで、必死に抵抗している。だがそれでもエヴァンは離さない。


「貴方に万が一のことがあったら、この国はどうなるのですか!」


「そんなの、俺でなくとも──」


「貴方は守るのではなかったのですか!愛する人が愛した景色を。守れなかった人たちが、生きようとしていた明日をっ!」


「っ…………」


 エヴァンの声に、言葉に、揺さぶられたのか──刹那、ヴィルジールの瞳が揺れ動く。その一瞬の隙を突いて、エヴァンがヴィルジールの手から剣を叩き落とした。


「ジル……お願いです……」


 皇帝の印章が彫られた剣は大理石の床を滑り、手の届かない場所へと飛んだ。その剣を見ていたヴィルジールの視界は、額から流れ出た汗で滲んでいった。


 上空にいたファルシとノエルが、竜に捕らえられたルーチェへ向かって降下する。ふたりは精霊たちと力を合わせ、強力な魔法を放ったが、竜の周りには視えない壁が生まれていたのか、弾かれてしまった。


「フィオナ!フィオナッ…!!」


「聖女!目を閉じないでっ…」


 ファルシとノエルがルーチェに呼びかけながら、次々と魔法を繰り出す。だが、竜を覆う分厚い光の壁は、何の攻撃も受け付けなかった。


 ヴィルジールは剣からルーチェへと目を動かした。


 ルーチェの身体には竜の爪が突き刺っている。かつてその爪にヴィルジールは肌を抉られたことがあるが、余りの痛みにすぐに意識を手放してしまった。


 だが、ルーチェは。今もなお、竜を見据えている。何かを伝えるように、竜の瞳を見つめ続けている。


(……守ると、誓った)


 ヴィルジールは右の手のひらを握りしめた。


 いつだって真っ直ぐに自分を見つめてくれていたひとりの少女を想い、ゆらりと顔を上げる。


(あの笑顔を守れるのなら、何だってしてやりたいと思った)


 ヴィルジールは自分に回されているエヴァンの腕に、こつんと頭をぶつけた。国の為、そして幼き頃の自分が誓ったものを守るために、全身全霊で止めてくれたエヴァンの想いに応えるように。


「ジル……?」


 ヴィルジールは「ああ」と頷いた。そうして、するりとエヴァンの腕から抜け出し、相も変わらず澄んでいる焦げ茶色の瞳を見つめ返す。


「未来あしたの話をするのは、今目の前にある命を救ってからだ」


「……ジル」


 ヴィルジールは飛ばされた剣を一瞥してから、竜とルーチェを振り仰いだ。


「……ルーチェ」


 囁きかけるように呼んで、ヴィルジールは歩き出す。


 この世の全てに拒絶しているかのような、分厚い光の壁の向こうにいる、ルーチェと竜の元へ向かって。


 聖王ファルシにも大魔法使いのノエルにも敗れなかったこれを破ることが出来るものがあるとしたら、それはきっと一つだけだ。


 この大地に落ちた聖女が、赤子と共に託した一本の剣。


「──力をくれ。俺に、ルーチェを救う力を」


 ヴィルジールは目を閉じ、そして語りかけた。この地をひとつの国にまとめ上げ、オヴリヴィオという名を付け、人々を導いた男へと。


 聖女の剣を受け取り、聖女が遺した赤子を家族として迎え、その血を繋いでいった初代国王の名を、胸の内で呼ぶ。


「───お前は」


 ヴィルジールが次に目を開けた時には、青い光を纏う男が立っていた。


 髪は青く、瞳も青い。だが瞬きをひとつした時にはもう、その髪は銀色に染まっている。


 男はヴィルジールに微笑みかけながら、右手を差し出してきた。


『──我が子孫よ。力を得る代わりに、何を差し出す?』


 ヴィルジールは唇を横に引いた。


「何だって構わない。ルーチェの命と引き換えに得るものなど、何もないのだから」


『……その願い、受け取ろう』


 ふたりが頷き合うと、ヴィルジールの右手が光り輝き出した。

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