麻里が朝食を食べていると「おはようございます」と眠い目をこすって弘樹がダイニングルームに入ってきた。
弘樹が椅子に座ると、令子がご飯とみそ汁をよそい、目玉焼きと焼き魚とサラダを盛りつけた皿を出した。「どうぞ。」
「いただきます」と弘樹が力なく言う。朝は食欲がないらしい。
弘樹は少しずつ箸でつまんでは、もそもそと食べている。これが数日前に自分が戦った相手だとは到底思えない。自分はこの痩せた背の低い少年に、刀を振るって何度も切りつけたのだ。それも必死になって、しかも六人がかりで。
麻里は何度もあの戦いの場面を思い出していた。というか、恐怖が迫ってくる場面が何度も何度も脳裏によみがえり、そのたびに胸が苦しくなる。これがフラッシュバックなのだろうか。
あのとき震える手で必死に握っていた刀の柄の感触が今も手に残っている。呼吸の苦しさと、とめどなく流れる涙とともに。
そして、あのときの相手が今、すぐ横に座って飯を食っている。
義父の和也も朝食の座に加わった。「弘樹、しっかり食えよ。」
「こんなに食べられないよ」と弘樹が言う。
「朝食をしっかり食べないといけません」と令子が注意する。
「この週末に朱良がうちに来るそうだ」と和也。
弘樹がぎょっとした顔をした。
そうか、この子は姉が苦手なのか、と麻里は今更ながら気が付いた。
「弘樹、お前の生活を見に来るんだ。部屋を片付けておけよ」と和也。
今にも逃げだしそうな、あせった顔がおかしかった。
「麻里、朱良さんがあなた達の稽古を見てくれるそうよ」と令子。「早いうちにクラブの人たちにも声を掛けておいたら。」
「クラブに来てくれるの?」と麻里。
「少しだけなら指導してくれるそうよ」と令子。
「臨時コーチの名目で呼ぶことにしたんだ」と和也。
麻里は心細さが一気にはじけ飛んだ気がした。
「なあ、お前も麻里ちゃんに教えてやれよ」と和也は弘樹に向かって言った。
「え!」と麻里と弘樹は同時に顔を上げた。
「技を使ったらだめなんでしょ?」と弘樹。
「そうだが、麻里ちゃんはすでに門人だろ。当主のお前が教えて悪い理由はないんじゃないか。それに、技を見せなくても、コツを教えることはできるだろ」と和也。
「そうなの?」と弘樹。
「そうだろ。あぶねえから、人前で技を使っちゃあ、まずいけどな」と和也。
「ふうん。そうなのか」と弘樹。
気が付くと、横で麻里がぶるぶる震えながら立っていた。
「へ?」と弘樹が顔を上げると、麻里はばっと床に伏せた。
「どうかわたくしをご指導ください!よろしくお願いいたします!」と額を床につけて叫ぶような声を上げた。
「麻里姉さん、そんな大げさだよ」と弘樹が驚いた。「やめてよ、そんなこと……。」
「どうかご指導を!」と麻里。
「麻里姉さん、分かったから。分かったからそんな恰好やめてよ」と弘樹。
麻里は上半身を起こして正座した。「では、わたくしは今から弘樹様の弟子ということでよろしいでしょうか」と麻里。
「すでに朱良姉さんの弟子なんでしょ。わざわざぼくの弟子にならなくても」と弘樹。
「いいえ、ぜひあなたの弟子に」と麻里。
「弘樹、いいじゃねえか。麻里ちゃんが、こうまでしてるんだ」と和也。
「わかったよ」と弘樹。「でもぼく人を教えたことなんてないよ。弟子なんていないし。」
「では、わたくしが一番弟子となります。不束者ですが、よろしくお願いいたします」と麻里は再び平伏した。
「わかったよ」と弘樹。
「では今から、あなたのことを先生と呼ばせて頂きます」と麻里。
「姉さん、困るよ。今まで通りにしてよ。でないと弟子にしないから」と弘樹。
「わかりました。でも今まで通りでは申し訳がありません。何かさせてください」と、麻里。
「本当に何もいらないから」と弘樹。「ぼくはもう学校に行くから」と逃げるように部屋を出て行った。
「あいつは照れ屋だからなあ」と和也。
「そうね」と令子。