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第30話 夕食(2)

「わかったよ」と和也はさらにビールをぐびぐびと飲んでから続けた。「弘樹はもともと病弱で、道場には顔を出してなかったんだ。母親と一緒にいて、毎日ピアノを弾いてたよ。」


「母親は武道家ではなかったのですか?」と英子。


「前妻はピアニストだ。今は元彼のピアニストと再婚してるらしい」と和也。


「だから、普段の稽古は順子、仁美、朱良の三人を、親父とおふくろと先代の修羅と俺で教えていた。しばらくして弟子に蓮と蘭が加わったよ。」


「今だから言うが、前妻とは一目ぼれだった。お互いに惹かれあって、あっという間にゴールインだ。それまでの俺は稽古なんてしないで、ケンカまがいの他流試合に明け暮れていた。身を固めて道場で暮らし始めて、子供もできたが、五年もすれば浮気の虫も湧いてくる。それで家に帰らない日が続いて、神経質だった前妻の精神がおかしくなっちまったんだ。俺はもともと神経質な女が苦手だから、ますます家に寄り付かなくなってな。前妻はそのうち精神病院に入退院を繰り返すようになった。」


「弘樹は母親がいなくなってから、道場に連れ出されたらしい。五人娘から随分と苛められたそうだ。本格的な修行はそのころからだ。」


「それで強くなったの?」と麻里。


「いいや、さっぱりだった。ある寒い冬の日、風邪をひいているのに無理やり道場に連れ出されて倒れたらしい。連中は弘樹を放って、夕飯を食べていたそうだ。そこにたまたま退院して弘樹を探していた母親が見つけた。弘樹が死んでいると叫んで大騒ぎになったらしい。弘樹は救急車で病院に運ばれて、前妻は精神病院に運ばれたそうだ」と和也。


 さらにビールを飲んでから和也は続けた。「弘樹の熱は下がらなくて、本当に命が危ないと言われた。さすがに俺も呼び出されてな。原因は不明だった。何日かたったある日、ぽっくりと先代の修羅が死んだんだ。聞いた話だと、明日死ぬと自分で言っていたらしい。さっき話したように、今の朱良に口伝を引継ぎをした後布団に入って、朝には死んでたよ。死因は心不全だったかな。」


「通夜の前に弘樹は元気になって道場に戻ってきた。そのあとめきめきと上達をして、奥義に達したらしい。」


「その後、母親が退院して戻ってきたとき、弘樹を連れて逃げたんだ。俺たちは方々を探して二人を見つけ出した。そこで、親父とおふくろと俺とで、弘樹を返してほしいと頼んだよ。もちろん断られた。前妻は弘樹を溺愛していたし、弘樹も極度のマザコンだったから離れたがらなかったよ。無理に連れ去ることもできなかった。すでに弘樹は強くなってたからな。だが俺たちは奥義に達した伝承者を失うわけにいかなかった。だから前妻が再び入院した隙に弘樹を奪って、離婚調停の手続きをしたんだ。連れ戻された道場で、しばらく弘樹は例の五人娘とぎくしゃくした状態で過ごしていた。連中には修行で先を越されたひがみもあっただろうしな。」


「そんなひどい話だったのね」と令子。


「ああそうだ。俺のこと、嫌いになったか?」と和也。


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