「心の整理がつかないわ。奥義ってそんなに大事なものなの?」と令子。
「実は奥義には二つあるんだ。天狗の部と鬼の部だな。お前たちにはこれも教えておいた方がいいだろう。祭りのときに話した言い伝えは表向きの話なんだ。うちの家に伝わっている話はこうだ。実は里に下りてきたのは鬼ではなく、神だったんだ。あの道場のあたりの土地は神の領地とされていたのだが、人間が勝手に山を切り開いて神の怒りを買ったそうだ。それを調停したのが天狗だった。天狗はあらゆる術策を弄して神をだましすかして、最後には戦って神を退けた。このときのやり方、つまりいかに神をだますかを伝えているのが天狗の部だ」と和也。
「では鬼の部とは何でしょうか?」と英子。
「あの
「うちの流儀は古武道の一種だが、秘技秘術なんてない。さっき説明した通り、天狗の部の内容は神をなだめすかす方法なんだ。酒を飲ませろとか、女を与えろとか、取り囲んで多人数で戦えとかいうことが事細かに伝わっているんだ。」
「だが鬼の部は違う。飛んでいる鳥を落とす技とか水面を走る方法だとかが伝わっているんだ。誰も信じちゃいないけど、口伝で伝わってきた、そんな内容だ」と和也。
「あなたもその口伝を伝授されているの?」と令子。
「いいや。俺は子供の頃、道場の稽古をさぼってたから奥義を受けていない。若かった俺は古臭い口伝なんて馬鹿にしていたからな。今、口伝を受けているのは、弘樹以外には、くそまじめに修行をした五人娘だけだ。あいつらは弘樹が使う鬼の技を、自分たちで使えないまでも内容を知っている。そして天狗の部には鬼の技の受け方も含まれているらしい。」
「弘樹の修業がかなり進んだとき、それをおふくろが形式的に教えたんだ。ただの口伝としてな。弘樹はそれを、こっそりとものにしていた。誰にも見せずにな」
「あれは、俺の離婚調停に前妻が応じたときだった。小学生だった弘樹に伝えるとひどく動揺していたよ。母親がいつか戻ってくると思って道場で待っていたわけだからな。怒った弘樹が、母親に会いに行くと言って出て行こうとした。それを俺たちが止めたんだ。ところが、俺たちを押しのけようとして、例の技を使った。」
「最初は何事かわからなかった。だが、すぐにおふくろが口伝の技だと気が付いて大騒ぎになった。俺たちは甲冑や鎧の類まで持ち出して戦ったよ。オヤジにおふくろに五人娘とオレは散々追い掛け回して取り囲んで捕まえた。弘樹がまだ小さかったから何とかなったんだ。まだ弘樹が技を使い慣れてなかったせいもあった。とにかく言いくるめて、技を使わないようにさせたんだ。」
「それから弘樹は道場で猫かわいがりされるようになってな。」
「その後長く離婚の交渉がつづいた。俺が弘樹を引き取る代わりに、前妻に朱良と蓮と蘭を渡すことになった。しっかり母親の面倒を見るように言ってな。弘樹達がいなくなった後、順子と仁美は気まずくなって実家へ帰っちまったよ。その後はお前たちが知ってる通りだ」と和也。
「弘樹君はかわいそうな境遇だったのね」と令子。「あなた、そんな大切な話、なぜもっと早くしてくれなかったの?」
「しただろ。弘樹が流派の後継者だって。弘樹は流派の技を使わないだけで、本当は強いんだって言っただろう。お前たちが信じなかっただけだ」と和也。
「だけど、弘樹君の母親のことを話してくれなかったじゃない」と令子。
「そうだな。でもできないだろ。お前たちに前妻の話なんて」と和也。
英子はリビングルームのドアが半分開いていることに気が付いた。その奥に小学生の少女が立っている。
令子も気が付いて声を掛けた。「あら絵里、帰ってたの。入ってらっしゃい。英子さんに挨拶しなさい」と令子。
「こんばんわ、英子さん」と言った。習い事から帰ってきたらしい。
絵里が食卓に加わり、話題は日常生活の内容に変わった。絵里は両親に反発して格闘技を毛嫌いしていたので、修行の話はそれきりになった。