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第34話 お茶会

 歩きながら弘美は弘樹の横顔をちらちらと見た。たしかに繊細そうで、男性ピアニストによくある面差しだった。顔立ちが整っている。気難しそうで話しかけにくい雰囲気だった。


 絵里は弘樹の心配気な様子などお構いなしで「兄さん、もっと早く歩いて!」と急き立てている。


「ここよ」と絵里が立ち止った。


 瀟洒な造りのお宅で、玄関先にピアノ教室の看板が出ている。家の中からピアノの音が漏れていた。


「早く入って」とエリが促す。


 家の中はざわざわしていた。練習室と応接室を兼ねたような広い部屋に人がたむろしていた。立食パーティーだろうか。子供から大人まで二、三十人ほどいるだろうか。ピアノが止んで、ぱちぱちと拍手が起こった。


 絵里は弘樹と弘美を連れ、人をかき分けてピアノに近寄った。さらに椅子から立ち上がった演奏者を肩で押しのけた。


 絵里は弘美に「早く紹介して」と言った。そして素早く弘樹をピアノの前に座らせた。


「私の友達の絵里のお兄さんの弘樹さんです」と弘美は小さな演台に立って言った。


「何を弾いたらいいの?」と弘樹。


「何でもいいわよ!」と絵里。


 二人のやり取りが聞こえて、周りからくすくすと笑い声が漏れた。


「前の人が弾いてた曲でいい?」と弘樹。


「いいわよ、はやく!」と絵里。


 よく聴くセンチメンタルなクラシックの曲を、弘樹は控えめな調子で弾きはじめた。出だしから風のような調べを奏でた。と共に、部屋はしんと静まり返った。心を突き刺すような音の波が歌うように部屋を通り過ぎて行った。


 さらりと曲を弾き終えて「これでよかったのかな」と弘樹が顔を上げると、絵里と弘美が茫然とした顔をして立っていた。


 しばらく拍手が続き「もっと弾いて!」という声が起こった。


「早く次の曲を!」とひじで小突かれながら絵里に促され、弘樹は小曲を続けて何曲か弾いた。切りのよいところで立ち上がり、軽く礼をした。拍手にこたえて手を振って、部屋を出ようとしたところで呼び止められた。


「よかったらお茶を飲んでいって」ときつい顔をした中年の女性が言った。おそらくお茶会の主催者だろう。


 弘樹が絵里の顔を見ると、当然でしょうという表情をした。


 気が乗らないまま「ええ、頂きます」と答えた。


 声をかけてきた女性と弘樹、絵里、弘美は別室のテーブルの席に着いた。関係者らしき女性二人がお茶と菓子の用意をしてくれた。


「今日は来てくださってありがとう。私は弘美の母親で、ここでピアノを教えているの。あなた、すごいわね。どなたに習っているの?先生は誰?」と弘美の母。


「以前、母に習っていたのですが、今はピアノを弾いていません。家にピアノがないので」と弘樹。


 わざとらしく驚いた様子で「ピアノを弾いてらっしゃらないの?」と弘美の母。


「ええ」と弘樹。


「家にピアノがないなんて、どうして?」と弘美の母。


「両親が離婚した後、父親について来たので」と弘樹。


「あらそうなの」と母。


「家庭の事情がおありなの」と弘美。


「あら、そうだったの。とっても残念だわ。練習を続けられるように、お父様に私からお話ししてもいいわよ」と母。


「うちはピアノなんてとても」と弘樹。


「そう、残念ね。よかったらうちに弾きに来てもいいわよ。毎週いらっしゃい」と母。


「弘美、あなたこの方にピアノを習ったらどう?」と母。「あなたを教えるのに疲れたわ、私。」


「ねえ、弘樹さん、あなたよかったら弘美のピアノを見てあげてくれないかしら。この子、もう私が教えても見込みがなさそうだから」と母。


「お兄ちゃん、いいでしょう?」と絵里。


「まあ。時間があえば」と弘樹。


「どうなの、弘美」と絵里。


「お兄さんがいいというなら」と小声で言い始めたとき、横に座っていたエリが弘美の足をぎゅっと踏んだ。


 弘美ははっと顔を上げると、弘樹の手を取って「ぜひお願いします!」と、目を見つめた。


 弘樹は驚いた顔をして、「はあ、いいですよ」と答えた。


「ところで、あなたのお母さんのお名前を教えてくださらない。きっと有名な方なんでしょう」と母。


「風見ナナです」と弘樹。


「あら、存知ないお名前ね」と母。


「私、会場を見てくるわ、ゆっくりしていってね」と言って弘美母は部屋を去った。



「お兄さん、ありがとうございます。私、このごろ全然上達しなくて、母から家を追い出されそうなんです」と弘美。


「弘美は今日、家出しようとしてたんだよ。だからお兄ちゃんに頼んだの。ごめんね」と絵里。


「そうだったの」と弘樹。


「お兄ちゃん、ちゃんと弘美にピアノを教えてよ」と絵里。


「え、本当にぼくが教えるの?」と弘樹。


「当り前よ!」と絵里。


「いいえ、もういいんです。私なんか、あきらめた方がいいんです。もう、私なんか才能ないし……」と泣き始めた。


「お兄ちゃん!」と絵里。


「もちろん教えるよ。ぼくでよければ、いつでも来るから」と弘樹。


「ありがとう、お兄さん」と弘美。「それから絵里、ありがとう。」


「よかったね」と絵里。


「絵里のアドバイスのおかげだよ」と弘美は涙をぬぐった。


「えへへ」と絵里。


「アドバイスって?」と弘樹。


「お兄ちゃんはいいの」と絵里。


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