何度目かのレッスンのときだった。弘美と弘樹は長椅子に並んで座っていた。弘樹が手本の演奏をしながら、指先を意識するなと言った。「ぼくの体全体を見て、音楽を聴くんだ。そしてすぐに、ぼくの真似をするんだ」と言って曲の前半を少しだけ弾いた。
すばやく弘美が入れ替わり、同じ前半部を弾いた。
「間違えてもいいから、もっとそっくり真似をするんだ。ぼくの表情やしぐさも真似て」と弘樹。「そう、もっとぼくになりきるんだ。ぼくそのものになって!」
「その調子で、とてもいい。そして曲に乗るんだ。演奏するんじゃない。曲に乗って、曲に君がついていくんだ。」
「どう?もう一度行くよ」と言って、同じことを何度も繰り返した。
日が暮れるころにはそっくりに演奏できるようになっていた。「ぼくが前奏を弾いたら、君は続けてこの曲を最後まで弾ききるんだ、いいね。」
弘美は心の赴くままに、曲とともに氷の上を滑るような演奏をした。胸の躍る喜びとともに弘美は泣いた。部屋のドアがバンと開いて弘美の母が拍手をした。ずっと廊下で聞いていたらしい。いつまでもいつまでも拍手をしていた。
弘美の母がお茶を出してくれた。
「弘樹さん、ありがとう」と言って、弘樹の手を取った。「これからも弘美の指導をお願いするわ。正式にお願いしたいの。あなたのご両親にお話ししてもいいかしら。」
「両親は音楽のことを何も知らないので、話しても仕方がないと思います。それにぼくの先生は実の母親ですし」と弘樹。
「そうね、あなたのお母さんと話ができればいいのに」と弘美の母。「あなたをプロのピアニストにするお手伝いをさせてほしいわ。」
「ところで、次の週末にまたパーティーを開くの。来てもらえないかしら。今度は正式に招待するわ。好きな曲を弾いてちょうだい。それから、あなたより少し年上だけど、とても上手な人を呼んだから、紹介するわ。」
「ご招待ありがとうございます。ぜひ伺います」と弘樹。