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第36話 パーティー

 ホームパーティーが始まる前から、弘美は弘樹に張り付くように側にいた。参加者が徐々に集まり始めて、演奏会が始まった。会場に若い甲高い声の男が入ってきた。高校生ぐらいだろうか。弘美の母に挨拶をしている。弘美は弘樹の左腕を両手でしっかりと握った。


 若い男がまっすぐと近づいてきて、「弘美ちゃん、久しぶりだね。元気かい」と声を掛けた。


 弘美は「あら、こんにちは」と小さな声で答えた。


「今日は君に会いに来たんだ。かわいい弘美ちゃん。ところでその人は誰」と男は言った。


「私の先生なの」と弘美。「この子が?冗談だろう。ぼくが弘美ちゃんに教えてあげるよ。遠慮しなくてもいいよ」と若い男。


 弘美の母が近づいてきて「紹介するわ。この人は弘樹君といって弘美の友達のお兄さんなの。こちらは田中敬一君。有名なピアニストの田中敏夫さんの息子さんなのよ」と言った。


「ああそうですか。どうかよろしく」と弘樹は言った。


「弘美ちゃんの先生には、ぼくの方が適任ですよ。」と敬一が弘美の母に言った。「弘美ちゃん、ぼくは君に会いに来たんだよ。その子とはいつでも会えるんだろう?ぼくとお話ししてよ。」と言って弘美に付きまとった。


 弘美は弘樹の両腕を握りしめたままだった。弘樹は「弘美さんは今日、少し具合が悪いようなんだ。ちょっと向こうで座らせてもらうよ」と弘美を連れて敬一から離れようとした。


「ちょっと待て!」と敬一が叫んで、弘樹の肩をつかもうとしたが、弘樹は軽くかわした。敬一が逆上した。「弘美はぼくのガールフレンドだ。君なんかと一緒にいるのがおかしいんだよ。君はどこかに行きたまえ!」と甲高い声をあげた。


 演奏が途中で止まって、わざと知らないふりをしていた客たちの視線が集まった。「弘美さんは具合が悪いんだ。ぼくが連れて行くよ」と弘樹が静かに答えて部屋を出ようとした。


「ぼくと勝負しろ!」と敬一。「君もピアノを弾くんだろう。弘美を賭けて勝負をしようじゃないか」と敬一。「断るよ。ぼくは賭け事が嫌いなんだ。とくに女性を賭けるなんて最低だと思うよ」と弘樹。


「お二人とも待ちなさい」と弘美の母。「敬一さん、ごめんなさいね。本当に弘美は具合が悪いの。私が外に連れて行くから」と言って敬一をなだめた。


 関係者らしい若い女性が何人かでお茶を勧めて壁沿いのソファーに敬一を座らせた。


 その日の演奏会も終わりに近づいたころ、敬一が立ち上がって、客に挨拶をした。「ぼくの演奏を弘美さんに捧げよう」と臆面もなく言って、ピアノに向かった。技巧を凝らした曲の演奏を披露し、玄人の客を感心させた。


 最後は弘美と弘樹が前に出て、一礼をした。弘美がピアノに向かい、そのそばに弘樹が立った。弘美は弾き始めた。よく知られたソナタを、氷の上を滑るような優雅さと力強さで一気に演奏した。弘美が立ち上がって一礼をすると、はっと我に返った客たちが大きな拍手をした。


「弘美ちゃん、変わったわね」と感嘆の声が聞こえた。


 弘美と入れ替わって、次に弘樹がピアノの前に座り、おもむろに演奏を始めた。静かだが叩きつけるような鋭い音の連なりが響き始めた。打ち寄せる波のような緩急をつけた流れの中を何かが駆け抜けていった。そして気が付いたときには、力強く、それでいて空を滑るような優雅さで曲が終わっていた。


 弘樹は立ち上がって軽く会釈をし、弘美の手を取って歩き出すと会場は拍手であふれた。パーティーの演目はこれで終わりだった。弘樹はこのまま部屋を出て行こうとした。


「待て、弘美をどこへ連れて行く気だ!」と敬一がまた叫び声をあげた。


「もう、パーティーは終りなので失礼するよ」と弘樹。「それに弘美さんは疲れているんだ。」


「弘美はオレの彼女だ。どこへ連れて行くつもりだ!」と敬一。


「弘美さんはまだ小学生だ。男性とのお付き合いにはまだ早いよ」と弘樹。


「オレと弘美は親も公認の仲だ。お前は関係ない」と敬一。


「子供の弘美さんを君に渡すことはできない。もし君が交際しているつもりなら、ここでお断りする」と弘樹。


「なんだと、お前、外に出ろ!」と叫びだした敬一を周りの大人がなだめた。


 弘美を別の部屋に連れて行き「ぼくは失礼するよ」と弘樹が言うと、弘美はギュッと両手で弘樹の手を握ってから手を離した。弘樹は玄関に向かった。


 玄関で待ち構えていたらしい敬一が殴りかかってきたが、ごく自然な動作で弘樹は体をかわした。敬一の体が前のめりになって土間に手をついた。弘樹は何もなかったように靴を履き、ドアを開けた。敬一が立ち上がってさらに殴り掛かり、弘樹が何もなかったようにかわす、ということを何度か繰り返し、家の敷地を出たところで弘樹は敬一の視界から姿を消した。


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