人の会話など何も聞いてない様子のナナが言った。「弘樹、ピアノを弾いてみなさい。少しでも腕が落ちていたら、今すぐ家を追い出すわ。二度と会いに来ないでちょうだい。」
弘樹は何も言わずに赤ん坊を朱良に渡すと、すたすたとピアノの前に歩いて行って座った。そしておもむろに弾きはじめた。
突き刺さるような音が部屋に響き始めた。敏夫が「ほう」と言って表情を変えた。
「打鍵が強くなったわね」とナナが弘樹に近づきながら言った。
くっきりしたメロディーのクラシック音楽が流れ始めた。
「伴奏を私に譲りなさい」といって長椅子の弘樹の左側に大きな尻をのせた。
ナナは即興で伴奏を始めた。それに合わせて弘樹がメロディーをアレンジした。弘樹の羽ばたくような音の波に、ナナの流麗な音の流れがまとわりつくように合わさって進んでいった。弘樹の波は次第に力強さを増していった。
「もっと優しくしてちょうだい」とナナ。
弘樹は端正なメロディーに戻り、ナナのねっとりとした伴奏が押し包んだ。「あなた、男になったのね」とナナはつぶやき、一瞬振り向いて朱良の目を見た。
朱良は背中に冷たいものを感じた。
「高音を譲りなさい」とナナ。弘樹は立ち上がり、素早く後ろから母の左側に移動した。
ナナは妖艶な調べを高音で奏で始め、「もっと激しくして」と言った。弘樹はテンポを上げ、羽ばたくような力強さで母の音を追った。クライマックスが来て、そして突然途切れ、高音は弱弱しく余韻を残し、低音部は飛び去るように消えて行った。
敏夫は呆然とした。ナナは常々、私が認めるピアニストは息子の弘樹だけだと言っていた意味を理解した。弘美と敬一は立ち尽くすほかなかった。
ナナは弘樹を抱きかかえて立ち上がった。「あなたは私の弘樹だわ」と言って軽くキスをした。「あなた、弾いてみなさい」とナナは弘美に言った。
弘美は泣きそうな顔をした。この親子のとんでもない演奏の後に、何を弾けばいいのだろう。
「弘樹にどんなふうに習っているのか見せなさい」とナナ。
弘樹が弘美に近づき、肩を抱いてピアノの側に連れて行き、二人で椅子に座った。「ぼくが序奏を弾くから、気持ちが落ち着いたら君が続きを弾くんだ」と言って演奏を始めた。
弘樹が長い導入部を弾いたのち、弘美が演奏を始めた。滑るような優雅さで進み、力強くステップを踏み、空を舞うような明るさで曲を締めくくった。
「すばらしい!」と言って敏夫が拍手をした。
「まあまあだわ」とナナ。「でもこの程度では弘樹はあげられない。だけど少しの間なら貸してあげてもいいわ。せいぜい練習するのね。」
「それから、いつでもこの部屋に来てピアノを弾かせてあげる。敏夫、いいわよね」とナナ。
「ああ、もちろんだ。いつでもレッスンに使ってくれていいよ」と敏夫。
「それじゃああなた、もう帰っていいわよ」とナナは弘美に向って言った。
ナナは弘樹を胸に抱き寄せると、舐めるように弘樹の額にキスをした。そして弘樹を抱きかかえたまま、ソファーに座った。
朱良は母を気持ちが悪いと思った。
「あなたたち、見たくないのなら、出ていってちょうだい」とナナが言った。
朱良は弘美を駅まで送るために家を出た。