放課後の廊下は、いつもより静かだった。
生徒たちは帰宅ラッシュの波に飲まれて、校舎は静寂と夕陽に包まれていた。
けれど、俺の背中には……なぜか、視線を感じる。
(気のせいか?)
そう思いながら振り返っても、誰もいない。
だが数分後——
「……なぜ尾行しているんですか、神崎さん?」
角を曲がった先に、神崎紅がいた。
窓辺に立ち、こちらを見ていた。いや、明らかに俺を見張っていた。
「べ、別に尾行などしていませんけど?」
「いや、してたよね? 今日の昼も中庭で会って、さっきの購買前でもすれ違って……これで偶然はちょっと無理があるって」
「……む、無害な情報収集です。監視ではありません」
「怖いからね!? その言い回し!」
紅は生徒会長らしく冷静を装っているが、顔は若干赤い。
その手には、開きかけたメモ帳が見えた。
「それ……俺の行動記録つけてないよね?」
「……つけていません」
「間(ま)があった! 今一瞬あったよね!?」
紅は目を伏せ、軽く唇を噛むような仕草をする。
そして——
「昨日、姫野ことりと……楽しそうに話していたので」
「それはまあ……ことりが“観測対象”だったからね?」
「観測対象……ええ、そうですね。でも、どうして私はまだ“観測”されないんでしょうか」
「……え?」
「私は“完璧”すぎて、観測するまでもないという判断ですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
「……“恋心”の観測なら、私にもあるかもしれないのに」
その一言は、まるで爆弾のように静かに投げ込まれた。
紅は、すっと目を逸らした。
その横顔は、ほんのわずかに揺れていた。
「成瀬くんは、私のこと……“完璧”だと思っているんでしょう?」
「まあ……実際そうだし。頭もいいし、仕事も完璧だし、誰からも信頼されてるし」
「それが、苦しい時もあるんです。
“できる人”であることを期待されるたびに、失敗できなくて、間違えられなくて……“感情”を出す余地もない。
でも、あなたといると……なぜか、素の自分を許されている気がしてしまう」
「……紅さん」
「……観測してください。
“完璧少女”が、今どんな気持ちを抱いているかを」
その瞳は真っすぐで、隠していた感情がこぼれ落ちそうなほど、脆くて。
さっきまでの尾行モード(?)とは別人みたいだった。
俺は、ふと手を伸ばし、紅の持っていたメモ帳をそっと閉じる。
「……観測するよ。
でも、俺もまだ答えを出せるわけじゃない。
“好き”って感情は、観測だけじゃわからないこともあると思うから」
「……ずるいですね、あなたは」
紅は目を伏せ、静かにため息をつく。
だが、その頬がわずかに染まっていたのを、俺は見逃さなかった。
その夜・神崎紅side
ベッドに倒れ込み、制服のまま、枕に顔を押し付ける。
「……あああああああ!! 何してるの私っ!」
紅は生徒会長である。
常に冷静、沈着、公平無私。
なのに——今日は、あからさまにおかしかった。
そもそも尾行とか、正気の沙汰じゃない。
けど、見てしまったのだ。
昨日の放課後、悠真とことりが親しげに話す姿を。
ことりが、ほんの少し上目遣いで「好きになっちゃダメなの?」と問いかけた瞬間を——
「私には、あんなふうに甘えられない……。
でも、私も……成瀬くんのこと、ちゃんと好きになってしまったら、どうしたらいいの?」
紅の胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
それは恋なのか、焦りなのか。
あるいは、“完璧”という仮面の下から生まれた、初めての感情なのか。
「負けたくない……けど、こんな感情、どう表せばいいの……?」