放課後の観測部室。窓から差し込む夕陽が、机の上のノートパソコンを照らしていた。黒羽 澪は、静かにキーボードを叩きながら、時折視線を上げては、部室の入り口を見つめていた。
「……遅い」
澪の小さな声が、部室の静寂を破る。彼女の視線の先には、まだ誰もいない扉。いつもなら、放課後すぐに現れるはずの悠真の姿が、今日は見当たらなかった。
「観測対象の行動パターンに、異常が発生している……」
澪は、自分のノートパソコンに記録されたデータを見返す。悠真の行動パターン、発言、表情の変化――すべてを記録し、分析してきた。しかし、今日はそのパターンが崩れた。
「……感情の乱れ、か」
澪は、ふと自分の胸に手を当てる。心臓の鼓動が、いつもより速い気がした。それが、悠真の行動パターンの乱れによるものなのか、それとも――
「……わからない」
澪は、初めて自分の感情が解析不能であることに気づいた。それは、彼女にとって初めての経験だった。
そのとき、部室の扉が開いた。悠真が、息を切らしながら入ってくる。
「ごめん、遅くなった」
澪は、悠真の姿を見て、胸の鼓動がさらに速くなるのを感じた。彼女は、静かに立ち上がり、悠真に近づく。
「悠真。きみを解析してみたい。……わたしの、特別な分野で」
澪の言葉に、悠真は驚いた表情を浮かべる。しかし、澪の瞳は真剣だった。
「……澪?」
「きみの行動パターンが乱れた。わたしの観測では、きみはいつも放課後すぐに部室に来るはずだった。しかし、今日は違った。理由を教えて」
悠真は、少し困ったように笑う。
「実は、ことりと涼が喧嘩しててさ。仲裁してたんだ」
澪は、その言葉を聞いて、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「……そう」
澪は、静かに席に戻り、再びノートパソコンに向かう。しかし、指はキーボードの上で止まったままだった。
「澪、大丈夫か?」
悠真の声に、澪は顔を上げる。彼の瞳は、心配そうに澪を見つめていた。
「……悠真。わたし、わからないことがある」
「何が?」
「わたしの心臓の鼓動が、速くなっている。これは、感情の乱れなのか?」
悠真は、少し驚いた表情を浮かべた後、優しく微笑む。
「それは、澪が誰かを大切に思ってる証拠じゃないかな」
澪は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。そして、静かに頷く。
「……わたし、きみのことが好きなのかもしれない」
悠真は、少し驚いた後、優しく微笑む。
「ありがとう、澪」
澪は、初めて自分の感情を言葉にした。それは、彼女にとって大きな一歩だった。
「……わたし、きみのことが好きなのかもしれない」
その告白のような一言は、部室の空気を一瞬にして変えた。
あたりは静かだった。窓の外で風が吹いて木の葉を揺らしているのが聞こえるほどに、静かだった。
悠真は何も言わなかった。何も言えなかった。目の前にいる黒羽澪――天才で、無口で、どこか不思議な彼女が、まっすぐな視線でこちらを見つめていた。
「好きって……」
やっとのことで絞り出した声に、澪は小さく首をかしげた。
「……あってるか、わからない。でも、わたしはきみの笑顔を見ると、心が――あたたかくなる。そういうのが、恋?」
「……たぶん、そうだと思う」
悠真は、少し戸惑いながらも笑って答えた。
それが正解なのかはわからない。でも、彼女の中で湧き上がる“その気持ち”が、少なくとも特別なものであることは間違いなかった。
「そっか。じゃあ……これは、観測じゃない」
「え?」
「わたしのこの気持ちは、悠真にしか向いてない。つまり、“個人に対する選択的感情”であって……」
「澪。定義じゃなくて、気持ちで話そう?」
「……はい」
わずかに恥じらうように視線を逸らしながら、澪は椅子に座り直した。そして、ほんの少しだけ頬を赤らめて――それでもしっかりと、悠真の方を見つめた。
「悠真。……わたし、これからは“観測”じゃなくて、“接近”を試みたい」
「接近って……え、ちょっと待って」
「今までのわたしは、ただの観測者だった。でも、恋をするなら、“実験”が必要。つまり、あなたと一緒にいる時間を増やして、感情の変化を追う。それは――“恋人関係における相互作用の測定”」
「いや、それはもう“交際”って言うんじゃないかな……」
「そう、交際。……交際してみたい、かもしれない」
「……それは告白だよね?」
「たぶん。……違った?」
「いや、違わない。うん、立派な告白だと思う」
悠真はどこか照れくさそうに言いながら、心の中で軽く混乱していた。
まさか澪が、自分にそんな感情を抱いていたとは。
いや、考えてみれば……いつも距離が近かった。理由をつけて観測に付き合わせてきたし、名前を呼ぶ声にも独特の柔らかさがあった。
今思えば――あれも全部、彼女なりの“好意”の現れだったのかもしれない。
「……ありがとう、澪」
悠真は、そう言って笑った。
それだけで澪の頬がわずかに染まる。感情表現の薄い彼女にしては、極めて珍しい反応だった。
「でも、ちょっと時間をくれる? まだ、気持ちの整理が追いついてなくてさ」
「了解。恋愛感情における“揺らぎ”は、初期段階ではよくある現象。……測定を続ける」
そのとき、ガチャリと扉が開いた。
「……あら。そういう“実験”は、こっそりやってほしいわね」
涼の涼やかな声が、空気を一変させた。
図書室帰りらしい白石 涼が、腕に数冊の文庫を抱えて立っていた。
その眼差しは、いつも通り優雅で微笑んでいる……が、その奥に潜むものは、どこか冷たさを感じさせるものだった。
「……白石さん」
澪が無表情で名を呼ぶ。悠真はなんとなく嫌な予感を感じていた。
「“先に仕掛けた”のは黒羽さんの方だったのね。意外。でも悪くない。物語としては面白くなってきたわ」
「……意味がわからない」
「私、先輩に言ったわよね? 『私のことを普通の女の子だと思ってたなら…それ、間違いですよ?』って」
澪の眉がピクリと動いた。無表情な彼女の、明確な“敵意”のサインだった。
「白石 涼。……あなたも、観測対象に対して、特別な感情を持っている?」
「“観測”じゃないわ。“恋”よ。もっとも――文学的には『愛執』に近いかもしれないけど」
「それは……解析不能な衝動。危険因子」
「ふふ、ありがとう。“危険”と呼ばれるのは、少し気に入ったわ」
夕陽が差し込む観測部室。静寂の中で、火花のような視線が交差する。
無口で理論派の黒羽 澪。清楚系で腹黒な文学少女・白石 涼。
対照的な二人の間に、言葉よりも先に、空気が張り詰めていく。
「悠真。これから、少しずつあなたの隣を独占していくわ」
「それは、観測の妨害」
「ううん、“恋愛競争”っていうのよ」
涼は小さく笑いながら、澪の隣の椅子に静かに腰掛けた。
まるで、戦線布告するかのように。
悠真はその中央で、なぜか汗をかいていた。
(……ここから先は、何が起こっても不思議じゃないな)
彼の恋愛観測は、まだ始まったばかりだった――。