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第10話「黒羽 澪、ゆれる観測」

放課後の観測部室。窓から差し込む夕陽が、机の上のノートパソコンを照らしていた。黒羽 澪は、静かにキーボードを叩きながら、時折視線を上げては、部室の入り口を見つめていた。


「……遅い」


澪の小さな声が、部室の静寂を破る。彼女の視線の先には、まだ誰もいない扉。いつもなら、放課後すぐに現れるはずの悠真の姿が、今日は見当たらなかった。


「観測対象の行動パターンに、異常が発生している……」


澪は、自分のノートパソコンに記録されたデータを見返す。悠真の行動パターン、発言、表情の変化――すべてを記録し、分析してきた。しかし、今日はそのパターンが崩れた。


「……感情の乱れ、か」


澪は、ふと自分の胸に手を当てる。心臓の鼓動が、いつもより速い気がした。それが、悠真の行動パターンの乱れによるものなのか、それとも――


「……わからない」


澪は、初めて自分の感情が解析不能であることに気づいた。それは、彼女にとって初めての経験だった。


そのとき、部室の扉が開いた。悠真が、息を切らしながら入ってくる。


「ごめん、遅くなった」


澪は、悠真の姿を見て、胸の鼓動がさらに速くなるのを感じた。彼女は、静かに立ち上がり、悠真に近づく。


「悠真。きみを解析してみたい。……わたしの、特別な分野で」


澪の言葉に、悠真は驚いた表情を浮かべる。しかし、澪の瞳は真剣だった。


「……澪?」


「きみの行動パターンが乱れた。わたしの観測では、きみはいつも放課後すぐに部室に来るはずだった。しかし、今日は違った。理由を教えて」


悠真は、少し困ったように笑う。


「実は、ことりと涼が喧嘩しててさ。仲裁してたんだ」


澪は、その言葉を聞いて、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。


「……そう」


澪は、静かに席に戻り、再びノートパソコンに向かう。しかし、指はキーボードの上で止まったままだった。


「澪、大丈夫か?」


悠真の声に、澪は顔を上げる。彼の瞳は、心配そうに澪を見つめていた。


「……悠真。わたし、わからないことがある」


「何が?」


「わたしの心臓の鼓動が、速くなっている。これは、感情の乱れなのか?」


悠真は、少し驚いた表情を浮かべた後、優しく微笑む。


「それは、澪が誰かを大切に思ってる証拠じゃないかな」


澪は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。そして、静かに頷く。


「……わたし、きみのことが好きなのかもしれない」


悠真は、少し驚いた後、優しく微笑む。


「ありがとう、澪」


澪は、初めて自分の感情を言葉にした。それは、彼女にとって大きな一歩だった。


「……わたし、きみのことが好きなのかもしれない」


その告白のような一言は、部室の空気を一瞬にして変えた。


あたりは静かだった。窓の外で風が吹いて木の葉を揺らしているのが聞こえるほどに、静かだった。


悠真は何も言わなかった。何も言えなかった。目の前にいる黒羽澪――天才で、無口で、どこか不思議な彼女が、まっすぐな視線でこちらを見つめていた。


「好きって……」


やっとのことで絞り出した声に、澪は小さく首をかしげた。


「……あってるか、わからない。でも、わたしはきみの笑顔を見ると、心が――あたたかくなる。そういうのが、恋?」


「……たぶん、そうだと思う」


悠真は、少し戸惑いながらも笑って答えた。


それが正解なのかはわからない。でも、彼女の中で湧き上がる“その気持ち”が、少なくとも特別なものであることは間違いなかった。


「そっか。じゃあ……これは、観測じゃない」


「え?」


「わたしのこの気持ちは、悠真にしか向いてない。つまり、“個人に対する選択的感情”であって……」


「澪。定義じゃなくて、気持ちで話そう?」


「……はい」


わずかに恥じらうように視線を逸らしながら、澪は椅子に座り直した。そして、ほんの少しだけ頬を赤らめて――それでもしっかりと、悠真の方を見つめた。


「悠真。……わたし、これからは“観測”じゃなくて、“接近”を試みたい」


「接近って……え、ちょっと待って」


「今までのわたしは、ただの観測者だった。でも、恋をするなら、“実験”が必要。つまり、あなたと一緒にいる時間を増やして、感情の変化を追う。それは――“恋人関係における相互作用の測定”」


「いや、それはもう“交際”って言うんじゃないかな……」


「そう、交際。……交際してみたい、かもしれない」


「……それは告白だよね?」


「たぶん。……違った?」


「いや、違わない。うん、立派な告白だと思う」


悠真はどこか照れくさそうに言いながら、心の中で軽く混乱していた。


まさか澪が、自分にそんな感情を抱いていたとは。


いや、考えてみれば……いつも距離が近かった。理由をつけて観測に付き合わせてきたし、名前を呼ぶ声にも独特の柔らかさがあった。


今思えば――あれも全部、彼女なりの“好意”の現れだったのかもしれない。


「……ありがとう、澪」


悠真は、そう言って笑った。


それだけで澪の頬がわずかに染まる。感情表現の薄い彼女にしては、極めて珍しい反応だった。


「でも、ちょっと時間をくれる? まだ、気持ちの整理が追いついてなくてさ」


「了解。恋愛感情における“揺らぎ”は、初期段階ではよくある現象。……測定を続ける」


そのとき、ガチャリと扉が開いた。


「……あら。そういう“実験”は、こっそりやってほしいわね」


涼の涼やかな声が、空気を一変させた。


図書室帰りらしい白石 涼が、腕に数冊の文庫を抱えて立っていた。


その眼差しは、いつも通り優雅で微笑んでいる……が、その奥に潜むものは、どこか冷たさを感じさせるものだった。


「……白石さん」


澪が無表情で名を呼ぶ。悠真はなんとなく嫌な予感を感じていた。


「“先に仕掛けた”のは黒羽さんの方だったのね。意外。でも悪くない。物語としては面白くなってきたわ」


「……意味がわからない」


「私、先輩に言ったわよね? 『私のことを普通の女の子だと思ってたなら…それ、間違いですよ?』って」


澪の眉がピクリと動いた。無表情な彼女の、明確な“敵意”のサインだった。


「白石 涼。……あなたも、観測対象に対して、特別な感情を持っている?」


「“観測”じゃないわ。“恋”よ。もっとも――文学的には『愛執』に近いかもしれないけど」


「それは……解析不能な衝動。危険因子」


「ふふ、ありがとう。“危険”と呼ばれるのは、少し気に入ったわ」


夕陽が差し込む観測部室。静寂の中で、火花のような視線が交差する。


無口で理論派の黒羽 澪。清楚系で腹黒な文学少女・白石 涼。


対照的な二人の間に、言葉よりも先に、空気が張り詰めていく。


「悠真。これから、少しずつあなたの隣を独占していくわ」


「それは、観測の妨害」


「ううん、“恋愛競争”っていうのよ」


涼は小さく笑いながら、澪の隣の椅子に静かに腰掛けた。


まるで、戦線布告するかのように。


悠真はその中央で、なぜか汗をかいていた。


(……ここから先は、何が起こっても不思議じゃないな)


彼の恋愛観測は、まだ始まったばかりだった――。




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