放課後の観測部室には、まったりとした空気が流れていた。
天音ことりはいつものようにソファに寝転び、スマホで音楽を聴きながら悠真の横顔をちらちらと盗み見ている。
黒羽 澪は窓際で静かにノートに何かを記録していた。白石 涼は、書棚から引っ張り出した分厚い文学全集を膝に置いて読書中。
「……平和だな」
そう呟いた悠真の言葉に、ことりがニヤリと笑う。
「油断してるとまた涼ちゃんが仕掛けてくるよ。最近、“文学の女王”モード入ってるし」
「なにそれ……」
「この前、私の靴箱に“愛は死に至る病”ってメッセージ書かれた紙、入ってたから」
「それ絶対、やばいやつじゃん……!」
「……それ、わたしじゃないわよ」
静かに涼がページをめくりながら言った。
「え、じゃあ誰が?」
悠真の問いに、誰も答えられなかった。だが、ことりの目が、ふと鋭くなる。
その瞬間だった――部室の扉が、ギィィィ……と軋みを立てて開いた。
「……悠真くん」
聞いたことのない声。けれど、その響きにはどこか凍りつくような艶があった。
振り返ると、そこに立っていたのは――真っ白な肌に、長い黒髪。瞳だけが燃えるような赤を湛えた、美しい少女。
「誰……?」
ことりが警戒心むき出しで問いかけると、少女は微笑んだ。
「ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。わたしは十六夜 沙羅(いざよい さら)。転入生よ。今日からこの学校でお世話になります」
「観測部に……何の用?」
白石 涼が目を細める。
「悠真くんに、会いにきたの。ずっと、会いたかったの」
「え、オレ?」
「ええ。わたし、あなたのことをずっと“観測”してきたのよ。ネットの投稿、写真、記事、噂、校内掲示……全部。もう、あなたのことはほとんど知ってるの」
その言葉に、部室内の空気がピリッと凍る。
「えっと……ありがと?」
「お礼なんていらないわ。好きな人を見ているのは、自然なことでしょう?」
その笑顔は、可憐で清楚――けれど、どこか“壊れかけの人形”のような危うさを孕んでいた。
「……悠真は、誰とでも仲良くできるタイプじゃないよ」
ことりがぴしゃりと切り込む。
「ううん、悠真くんは誰とでも仲良く“なれない”から、特別なの。選ばれた子にしか、彼の心は開かない。だから――その心を手に入れたら、他の誰にも渡さない」
その瞬間、彼女の目の奥に一瞬だけ、“狂気”が走ったように見えた。
「……この子、ガチだ」
悠真が小声で呟くと、涼も静かにページを閉じた。
「彼女、私たちよりずっと先を行ってるわね。“観測”じゃなくて、“監視”してたって感じ」
「悠真は誰のものにもならないよ」
ことりがきっぱりと言ったその時、沙羅は微笑みながら一歩、悠真に近づいた。
「先輩。私に“仮入部”させてくれませんか?」
悠真の脳裏に、警報が鳴り響いた。
この少女は――危険だ。
けれど同時に、彼の心のどこかが、彼女の純粋さと危うさに惹かれ始めているのも、また事実だった。
***
「沙羅ちゃん、って子……本気でヤバイってば」
その夜、悠真はことりとLINEでメッセージをやり取りしていた。
ことり:【悠真、危機管理能力ゼロすぎ】
悠真:【オレにだけ優しいから、悪い子じゃないのかなって……】
ことり:【“オレにだけ優しい”が一番危ないの。世界中のヤンデレがそうやって男を殺してきた】
悠真:【殺されるの!?】
ことり:【殺されるっていうか、“精神的に死ぬ”やつ】
画面の向こうで、ことりが本気で心配しているのが伝わってきた。
だけど――悠真の中では、ある想いが芽生え始めていた。
(どうして、あんなに真っ直ぐに“好き”って言えるんだろう)
ことりや涼、澪たちが複雑な感情の中で揺れ動くのに対して、沙羅の想いはあまりにも一直線すぎた。
それが、逆に危うくて、怖くて、でもどこか惹かれてしまう。
悠真はまだ知らなかった。
沙羅の“まっすぐな想い”が、どこまでも歪な執着へと変化していくことを――。
***
そして、次の日。
観測部に届いた1枚の手紙。
「悠真くんが誰にも渡らないように、私が全部、消してあげる」
差出人は、もちろん書かれていなかった。
けれど、その文字の癖も、香水の香りも――沙羅のものだった。
ことりは、それを見て、ぐっと拳を握りしめた。
「ふざけんなよ。悠真は、私が守る」
静かな闘志が、彼女の中で燃え上がる。
恋は、もう“平和な戦い”ではなくなっていた――。