放課後の部室棟、夕陽が差し込む静かな空間――
「……誰も、まだ来てないんだ」
結城悠真は、少しだけ安心したように部室のドアを閉めた。
“恋愛観測部”。名前だけなら冗談のようだが、ここ数週間で、この場所は彼の感情の中心に座るようになっていた。
机の上に並ぶ、無数の恋愛アンケート用紙。
白石涼が分析を進め、澪が数値モデル化し、沙羅が心理フレームを提供している。
そして――
「観測って……何を“観測”してるんだろうな」
独りごちた瞬間、背後のドアが音もなく開いた。
「……気づいたの? 結城くん」
声がした。低く、でもどこか寂しげで、温度がある。
振り返ると、そこには――紅、鬼灯紅の姿があった。
「紅……今日、部活?」
「……違う。ただ……なんとなく、来たくなっただけ」
彼女のセミロングの赤髪が、夕陽に染まって揺れていた。
悠真は、席を立って紅の隣に立つ。
「最近、あんまり話せてなかったな。ごめん」
「別に……私が話しかけなかっただけ」
ぶっきらぼうに言いながらも、紅は少し頬を赤くしていた。
しばらく、沈黙。二人だけの空間。
だが、その静寂を破ったのは――意外な言葉だった。
「……悠真。私さ、“観測”って言葉、ずっと気になってたんだよね」
「え?」
「恋愛観測部って名前……ただのネタかと思ってた。でも、私、気づいちゃったの。――あれ、全部“意図的”だって」
紅の視線は、机に並ぶアンケート用紙の束に向かう。
「おかしいと思わない? 普通の部活で、ここまで恋愛に踏み込んだ“観測”なんてする?」
「それは……まあ、確かに変だけど……」
「――これ、誰かが“仕掛けてる”んだよ。恋の感情を、“測定”しようとしてる。私たちがどんな風に恋に落ちて、どう行動するかを」
悠真は息を飲んだ。
「まさか……それって」
「“恋愛感情の科学的再現”。きっと、これが部の裏テーマ」
紅の声は低いが、確信に満ちていた。
「しかも……それを始めたの、白石先輩だよ」
「涼が……?」
悠真の頭の中で、過去の涼の言動が走馬灯のように蘇る。
意味深な視線、冷静な言葉、そして――彼女が一度つぶやいた“観測対象”という言葉。
「白石先輩、言ってた。『あなたの“感情変化”を記録するのが楽しい』って。――観測ってそういうことだよ」
紅の指が、アンケートの一枚をなぞる。
「これは、ただの“好き”じゃない。“どうすれば恋が芽生えるか”“どうすれば独占欲が強まるか”。全部、データ取り。そうでしょ?」
悠真は声を失った。
(恋愛……って、こんな風に、研究されるものなのか?)
「でも、私……そんなの嫌だ」
紅の声が震える。
「悠真が誰かに“操作”されて、誰かを好きになるなんて――嫌。……そんなの、私、絶対に許せない」
紅が拳を握り締め、顔を伏せた。
「……私、ちゃんと自分の“気持ち”で、あんたを好きでいたかったのに」
その言葉が、悠真の胸を強く打った。
「紅……」
「私のこの気持ちまで、“観測”されてるって思ったら、ぞっとするよ。あんたが他の子と仲良くしてるのも、“データ”にされてるのかもって思うと……」
紅は、強がりな彼女には珍しく、声を震わせていた。
悠真は思わず、紅の肩に手を置いた。
「……ごめん。俺、鈍すぎた」
「ううん……私こそ、うるさく言いすぎた。……でも、お願い。悠真、もう“利用”されないで」
その時だった。
「――あら、なかなか鋭い考察ね。神崎さん」
聞き慣れた声が、部室のドア越しに響く。
振り返ると、そこには白石涼が立っていた。静かに微笑みながら。
「ねえ、悠真先輩。私、本当にあなたに好意を持っていたって、思ってますか?」
「涼……?」
「それとも、“観測対象”として、興味があっただけだと思いますか?」
淡々とした声。けれどその奥には、黒い渦のようなものが揺れていた。
「私の本音、知りたいですか? だったら……観測、続けましょう。もっと“深いデータ”が取れるように」
紅が悠真の腕をつかんだ。
「悠真……行こう。こんなところ、私たちの居場所じゃないよ」
悠真は、戸惑いながらも、紅と一緒に部室を出た。
背後で、涼の笑みが一瞬だけ、崩れたような気がした――