ヴァイオリンの弓先が、わずかに震えた。
放課後の音楽室。窓の外では西日が傾き、淡く差し込む光が譜面台を照らしている。
日向心音(ひなたここね)は、弓を持ったまま指先をじっと見つめていた。
──違う。音が、届かない。
もう何度目かの演奏を止めて、小さく息を吐く。柔らかな髪が肩に触れて揺れた。
今日はひとりきりで練習したくて、授業が終わってすぐに音楽室にこもっていた。
「……また、空回りしてる」
そう呟いた瞬間、ドアがノックもなく静かに開いた。
振り向くと、黒髪の男子が立っていた。神谷奏多──同じクラスのピアノ専攻。
無表情で、無言で、何かを問うように心音を見ている。
「あ、ご、ごめんなさい……。もう出ます」
心音は慌ててヴァイオリンをケースに仕舞おうとした。
けれど、奏多は微動だにせず、静かに一言だけ発した。
「その曲、続けて」
「えっ?」
「気になった。君の音……途中だったから」
心音の胸が一瞬だけ跳ねた。自分の演奏を、"気になった"と――彼がそんなことを言うなんて。
でもすぐに不安が顔をよぎる。今日の演奏は、ぜんぜんダメだったのに。
「……わたしの音、変だったと思う。揺れてて、響きも浅くて……」
「そうだね。歪んでた。でも……」
奏多は、ゆっくりとピアノの前に座った。そして、彼女の目を見ずに、続ける。
「嫌いじゃない」
その言葉が、胸のどこかに柔らかく刺さった。
言葉よりも先に、何かが心音の中で震えた。
この人のピアノとなら、重なれるかもしれない──そんな予感が、ほんの一瞬、心を掠めた。
けれど、すぐに思い出す。来週から始まるアンサンブル授業で、心音は「新しいグループ」に配属される。
奏多、澄香、陸、そして──自分。
交差点の前に立たされている気分だった。
誰の音とも、まだ重ならない。
それでも、いつかきっと、どこかで響き合えるのだろうか。
ピアノの鍵盤が、やわらかく押された。
奏多が、心音の止まっていた旋律を続きを弾き始めた。
まるで、次のページをめくるように──