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私たち、不協和音
私たち、不協和音
菊池まりな
文芸・その他純文学
2025年05月27日
公開日
8,980字
連載中
高校の音楽科で出会った4人の生徒たち。 同じアンサンブル課題に取り組むなかで、少しずつ惹かれ合い、すれ違い、言葉にできない想いが募っていく。 「好き」の音が重ならないまま、時間だけが過ぎていく。 けれど、最後の演奏で、彼らは確かにひとつになった。

第1話 交差点の前で

ヴァイオリンの弓先が、わずかに震えた。


 放課後の音楽室。窓の外では西日が傾き、淡く差し込む光が譜面台を照らしている。

 日向心音(ひなたここね)は、弓を持ったまま指先をじっと見つめていた。


 ──違う。音が、届かない。


 もう何度目かの演奏を止めて、小さく息を吐く。柔らかな髪が肩に触れて揺れた。

 今日はひとりきりで練習したくて、授業が終わってすぐに音楽室にこもっていた。


 「……また、空回りしてる」


 そう呟いた瞬間、ドアがノックもなく静かに開いた。

 振り向くと、黒髪の男子が立っていた。神谷奏多──同じクラスのピアノ専攻。

 無表情で、無言で、何かを問うように心音を見ている。


 「あ、ご、ごめんなさい……。もう出ます」


 心音は慌ててヴァイオリンをケースに仕舞おうとした。

 けれど、奏多は微動だにせず、静かに一言だけ発した。


 「その曲、続けて」


 「えっ?」


 「気になった。君の音……途中だったから」


 心音の胸が一瞬だけ跳ねた。自分の演奏を、"気になった"と――彼がそんなことを言うなんて。

 でもすぐに不安が顔をよぎる。今日の演奏は、ぜんぜんダメだったのに。


 「……わたしの音、変だったと思う。揺れてて、響きも浅くて……」


 「そうだね。歪んでた。でも……」


 奏多は、ゆっくりとピアノの前に座った。そして、彼女の目を見ずに、続ける。


 「嫌いじゃない」


 その言葉が、胸のどこかに柔らかく刺さった。


 言葉よりも先に、何かが心音の中で震えた。

 この人のピアノとなら、重なれるかもしれない──そんな予感が、ほんの一瞬、心を掠めた。


 けれど、すぐに思い出す。来週から始まるアンサンブル授業で、心音は「新しいグループ」に配属される。

 奏多、澄香、陸、そして──自分。


 交差点の前に立たされている気分だった。

 誰の音とも、まだ重ならない。

 それでも、いつかきっと、どこかで響き合えるのだろうか。


 ピアノの鍵盤が、やわらかく押された。


 奏多が、心音の止まっていた旋律を続きを弾き始めた。


 まるで、次のページをめくるように──


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