城の中庭で、オヴィリオは練習用の木剣を振るっていた。
薄着となっているから体の逞しさは見ているだけで分かる。しかしその体格に反して、手にした剣は
「何の用だ」
頬をつたう汗を拭い、振り返りもせずにオヴィリオは呼び咎めた。
彼の後方、建物の影から凝っと稽古を見ていた、ジャンヌを。
「……」
「用がないなら消えろ。目障りだ」
「ひどい言い方」
口調とは真逆のほんの少しだけ皮肉るような言い回しに、オヴィリオはやっと背中の方に顔を向けた。
ぶつけられた言葉に、泣くのではなく怒るとは生意気な――そんな風にオヴィリオは思ったのだろう。
けれども振り返った先にあったジャンヌの顔は、怒りやなじるような類いのものではなく、ましてや悲しみや悔しさの表情でもなかった。
無表情――。
いや、こちらを試すような、どことなく挑発的な顔。
それが彼の感情を逆撫でしたのは言うまでもない事。
「何だ。腹が立ったのか」
むしろを腹を立てているのは自分の方だと分かっていたが、どうにもこの女は自分の心をざわつかせると、オヴィリオは苛立たしさを覚える。
「怒っているのは貴方の方でしょう? 殿下」
「――ああ、そうだ。言ったはずだぞ。俺はお前達
「貴方の聖女嫌いの理由を聞きにきたんじゃない。貴方に言いたい事があって来たの」
「あ?」
「貴方は怒っている。嫌っている。でもそれは
ジャンヌの言葉に、オヴィリオは激しい怒気の籠った瞳を向けた。
「お前……!」
「あたしは
「アクセルオか……! あいつめ、余計な事を。――まさかあいつ、俺の事をペラペラと話したのか……!」
「ええ、アクセルオ殿下から聞いたわ。でも彼だけじゃない、他の人からもよ。殿下に何があったのか。一六年前――いいえ。その前に起きていた、貴方と聖女と……貴方のお母様の話を」
言い終わった瞬間、オヴィリオは手にしていた木剣の切先を、ジャンヌに向ける。
「黙れ」
だが、黙れと言われて――剣で脅されて口を閉じるようなジャンヌであるはずがなかった。
「一六年前にこの国にいた聖女。その聖女の
「もういい。それ以上は喋るな」
それ以上言わずとも、充分に伝わった。
ジャンヌにどこまで知られてしまったのかが。
一六年前、この国にいた
彼女より以前の聖女が、
フランチェスカは非常に強力な力を持っており、それでいながら愛くるしい人柄で多くの人から親しみを持たれていた。それは、
それが好感から好意に変わり、やがて恋慕になってしまったのがいつなのか、それは国王本人にしか分からない。
パウル王は、そんな誰からも好かれる美しい聖女に――いや、誰からも好かれるような女性だったからこそ――手を出してしまったのだ。
聖女と関係を持つ事は、信仰や道理以外の意味でも禁じられている。
何故なら聖女の力の源である神霊は、聖女となった女性の、生命を産む力、そこから生じる神霊力にこそ宿っているからだ。即ち、万が一にでも特定の男性と関係を持ってしまい子供を授かってしまったら、その時点で神霊の加護は消え失せてしまうからである。
そうならないようにすればいいだけ――などというのは、男の浅はかで愚かな考えでしかない。
もしかしたらパウル王も、そのように自分に都合よく言い聞かせて、フランチェスカに手を出したのかもしれない。結果、彼女に入れあげてしまった王は、聖女を懐妊させてしまう。
つまり、名君と誉れ高いあの王の、過去に犯した愚かで身勝手な過ちこそが、この国から聖女という守護神を失わせるきっかけとなったのである。
これにより、王の不義を知った王妃は心を弱らせてか、ほどなくして病死。
しかもフランチェスカも子を産んだ後、自ら命を絶ったという。
これが、この国に一六年間も聖女があらわれなかった、本当の理由であった。
「当然、それが理由の全部でないのは分かっているわ。妹姫様が人質に取られた事、何より、この国がダンメルクの隷属になっている事が理由としてはもっと大きいって事は。でも根っこにあるのは、貴方の過去。だったら尚更、
ひゅん――という音がなり、ジャンヌの肩に血の糸が浮かぶ。
目にも止まらぬ剣技。
神技のような剣速で彼女の薄皮一枚を斬ったのである。本身の剣ではなく、ただの木剣で。
「喋るなと言ったぞ」
擦り傷以下であっても、斬られたのには変わりない。しかしジャンヌは臆する様子など、欠片も感じさせなかった。
「貴方は嘘つきの臆病者です」
「俺が――臆病だと?」
「ええ。それに間違っています、殿下」
「よく言ったな。真実を知った気になって、優越感に浸ったか? 聖女は悪くない、とでも言うつもりか?」
「聖女を憎みたいなら憎めばいい。何をどう思おうが、それは殿下の自由です」
「何だと?」
「嘘をついているのは自分に対してです」
自分に嘘――?
この女は何を言っている? どういうつもりだ? そもそも、この俺から怒りと剣先を向けられて、逃げ出さなかった女は今まで一人もいない。いや、男女の別なく、そんな人間は一人もいなかった。なのにこの女は怯えもしなければ、それどころか真っ向から意見をしてくる始末だ。一体こいつは何なんだ――。
そんなオヴィリオの戸惑いが、我知らず表に出ていたのだろう。
突きつけた木剣が、いつの間にか力なく下を向いている。
「貴方の本当の望みは、聖女を嫌うことでも、王に幼稚な怒りをぶつける事でも、聖女への見境ない八つ当たりでも、そのどれでもない」
「おのれ……言いたい放題……」
「貴方の本当の望みは、復讐――」
オヴィリオの動きも表情も、凍り付いた。
「王に対して、支配者のダンメルク王国に対しての――復讐」
この国を暗雲となって覆うダンメルクを、喜んで受け容れている人間は少ないだろう。それでいながら、国の王族や高位の人間ほど、それを表立っては言い難いのがこの国の情けない実情だった。それほどまでに、ダンメルクの支配と影響力は強いという事である。
ましてや復讐など、言葉にするのさえ憚られる。
なのにジャンヌは、それを口にした――。
「貴方は今まで、敵であれ味方であれ、ずっと聖女によって苦しめられてきた。だから聖女を信じるなんて出来ない。それに、貴方の王に対しても」
こうなった元凶が国王でも、今を維持出来ているのも国王のお陰。その矛盾。
ましてや王は王である前に、彼にとって父なのだ。憎い父王でも――母を死に追いやったのがあの父でも――。
「貴方は本当は優しい人」
「黙れ」
「だから間違うし、間違い続けるの」
間違う? 違う。間違ってるのはこの世界だ。聖女なんてものがなければ、こんな不幸になんてなりはしないのに。
そんな言葉が喉元まで出かかるが、それを吐き出してしまえば、もう止められないとも分かっていた。
「いいからもう消えろ。仮にお前の戯言が本当だとしても、それはただの私的な感情だ。俺が復讐したいと思っていても、そんな私心で国を左右するなどあってはならない。現実がどうであれ、俺はお前達を認めないし、何もかもを認めない。認めてたまるものか」
「いいえ違う」
「何が違う」
「私的な感情で、何が悪いの。自分勝手で何が悪いの」
「そうやって――! そうやってどいつもこいつも己の感情だけで誰かを苦しめてきた。俺はそんな事、許せない」
「復讐したいのが貴方だけなんて、それこそ一番の身勝手よ!」
対峙してから初めて――ジャンヌが感情的に声を荒げた。それにオヴィリオが気圧される。
「多くの人が思ってるわ。この苦しい状況から、解放されたいって。そのためにダンメルクと敵対する事の、何がいけないの」
「俺は――」
「あたし、貴方が間違ってるって言ったわよね。そう、間違ってる。あたしはこの国をよくしたいから、みんなの希望になりたいから、聖女になったと思ってるの? ……いい? あたしも、貴方と同じ」
「何だと……?」
「あたしも、復讐が目的。復讐するために、
中庭の空気が、凍り付いた。
音までも消えたような――。
「あたしは、ダンメルクの聖女、クローディアを殺すため、復讐するために聖女になったの」
「何を……」
「他はどんなになったっていい。それが果たせるなら、何だってする。あたしは貴方と違う。出来ない自分に言い訳しないし、別のものに矛先を向けるような真似もしない。真っ向から立ち向かうの。自分の敵に対して。そのあたしがはっきり言うわ。わたしは貴方の敵じゃないし、貴方がわたしを憎むのは見当違いもいいところよ。いい? 貴方とあたしは同じよ。オヴィリオ殿下」
泣きついてくるのかと思っていた。
もしくは「どうか力を貸して」と訴えるとか。
背丈も平均的な年頃の女子のそれだし、体格だって細くて淑女らしい。
明るい雰囲気も、恵まれた生まれの貴族の子女だからか、もしくはこの少女が聖女に選ばれた、そんな女だからだろうと思っていた。
見た目の愛らしさから、色眼鏡で見ていた。
しかし、たおやかな蝶のように見えたのは文字通り外見だけで、実際は鋭い牙を持った蜘蛛なのが、この少女――。
「この世には二種類の人間がいるの。楽観的な人間か、悲観的な人間か。あたしは楽観的なの。どんな困難な状況でも、倒せそうにない敵もどうにかして倒してみせるし、どうにかなると思っている。貴方みたいに心の奥に引きこもったりしないわ」
「……!」
「でも、殿下の事を一方的に聞き回った事、それに言いたい事を言った事、それは全部――ご免なさい」
心を抉るような言葉で一方的にこちらを責めておきながら、今度はいきなり頭を下げて心の底からの謝罪を述べる。
そのあまりの屈託のなさに、さすがのオヴィリオも面食らって怒りを出そうに出せない。
「殿下の事、あたしだけが勝手にあれこれ言ってしまいました。きっと本当は、あたしだって何も分かってないと思う。――でも、あたしの言った事だって、そんなに大きく間違ってはないでしょ?」
そうかと思えば次に見せたのは、マリーゴールドの花を思わせる笑顔。
凍てついていた中庭の空気が、一瞬で初夏の爽やかさに変えられてしまったかのような。
そんな清涼感さえあった。
それでいながら、どこか無邪気な――ほんのちょっぴりだけ悪戯をしたような顔。
「もし殿下があたしの事を――あたしの復讐の話を知りたいと思ってくれるなら……明後日の契約者選びから、逃げないでください」
「……」
もう一度、頭を下げるジャンヌ。
けれども今度は貴族の作法に則った、実に品のある所作。
そのままオヴィリオの返事を待たずに、ジャンヌは今度こそ本当に立ち去っていく。
話した時間は、それほど長くはなかっただろう。周りからは、僅かばかり庭で話していたぐらいにしか見えなかったに違いない。
にも関わらずそんな短い間で、まるで四季のように彼女はいくつもの顔を見せた。
いつしかオヴィリオは、ジャンヌのそんな姿に翻弄され、惑わされている自分に心地良さすら覚えはじめていた。
立ち去るミルクティー色の髪が揺れるのを、オヴィリオはただ何も言わずに見つめていた。