騎士同士の試合がいささか長引いたのもあり、クローディアらがダンメルクに帰るのは翌日となった。
支配国の一行である以上、その日はパウル王らが夕食をもてなすのはごく自然であったし、当然ながらジャンヌも、そこに同席する事となったのである。
宴とはいかぬまでも、それなりの歓待の場であるはず――なのに、目に見えぬ冷たさが誰しもの肌をさすような、ひりついた食事会。
しかも、その緊張感をさらに助長するかのように、食事の最中に予想だにせぬ言葉がクローディアから発せられたのだった。
「レイアを?」
「ええ。こちらでの生活ももう充分でしょうという、我が国王陛下のはからいです」
「それはまた……」
何とも言えぬ複雑な表情となり、パウル王やオヴィリオ、アクセルオ達は互いの顔を見合わせる。
レイアとは、王の養女で王子達の義妹。即ち、ダンメルクに人質として差し出されていた王女である。
クローディアは、そのレイア王女を返すと言ったのだ。
普通は喜ぶべきところだし、誰しも一瞬は表情を明るくしかけた。しかしこのタイミングでのいきなりの人質返還となれば、何か裏があるのではと勘繰ってしまうのは当然だろう。何より理由が分からない。
いや、その期間がもう充分になったからとダンメルクの王は言っているというのだが、そんな言葉を真に受けるほど、ゼーランの人間も愚かではない。
だが、それに対して条件も何も、クローディアは続けなかった。
それが尚一層不気味でしかないが、戻ってほしいと願い続けた王女が返されると言うのだから、取り敢えず礼を述べるしかなかった。
これは果たして駆け引き的な何かを孕んでの事なのか――。
まるで相手側の意図が読めず、困惑と疑念だけが、並んだ食事に濃く味付けされていった。
それはジャンヌも同様であった。
支配国の代表をもてなすのだからそれなりの豪華なメニューが並んでいるはずなのに、ジャンヌの食欲はまるで湧かない。かといって口をつけずにいるのは不審がられるし、何より不敬な事なので、機械的にだが無理矢理食事をしていくだけ。ただし、何を食べても味はしなかったし、そもそも何の料理だったか、後になっても思い出せなかったが。
殺したい相手と食卓を囲むなど、これは一体何の皮肉なんだと笑いたくなる。
手にした食事用のナイフを今この場でクローディアの喉に突き刺せたら――。
そんな事が出来ないのは百も承知なのに、つい手元を見つめて考えてしまう。
「――ンヌ、ジャンヌ」
自分が呼ばれている事にここでやっと気付き、オヴィリオの方を向いた。
「あ、ごめんなさい。ぼうっとしてた」
「疲れてるのか? もしあれだったら――」
「ううん、大丈夫。それよりどうしたの?」
心配そうに自分を見つめる灰色の目に、ジャンヌは少しばかりドキっとした。
「いや、さっきからどうも様子が
「え? そんな変だった、あたし?」
「いや、お前じゃなくて、周りがだ。どうにも落ち着かない感じがしてる」
そう言えば――と部屋を見ると、何やら慌ただしく人が動いていた。おそらくオヴィリオやジャンヌ達だけではない。ダンメルクのクローディア達も気付いているだろう。
そうでありながら、パウル王はなるべくそれを表に出さないようにしている。
――何が起きているのか。
ジャンヌの視界の隅に、付き人であるギルダの姿が入った時、彼女の表情もどこか不安げだったのに気付いた。やはり何かがあったんだと推察する。
ジャンヌはオヴィリオとアクセルオの兄弟に目配せし、様子を窺おうとした。
しかしここで――。
「何かございましたか、パウル陛下」
クローディアが、口を開く。
気付かぬ方が無理であったし、尋ねるのは当然だろう。
「いや、大した事ではございません。どうぞクローディア様や皆様は気になさらず、お食事を続けてくださいませ。私は少しばかり、席を外させていただいてもよろしいですかな?」
「ええ、構いません」
「ありがとうございます。オヴィリオ、こちらへ」
パウル王は長男だけを呼びつけ、席を離れる。
ジャンヌはアクセルオと目が合うが、アクセルオも何の事やらと小首を少し傾げるだけ。
「ところでジャンヌさん」
「え、あ、はい」
「貴女、ご出身はこのゼーランなんですよね」
王が席を立った事で、自然とクローディアはジャンヌに話しかけた。
ただの問いかけなのに、それはどこか捕食者に睨まれた獲物を思わせる、逃れられない金縛りのような感覚。
そのせいか、後ろで流れる楽団の音が、殊更大きく響いたかに思えたほど。
「ゼーランのどこのご出身なんですか?」
「ノーユラン地方にある、オールボーという田舎です。ここからだと随分南になりますから、ダンメルクの方々にはご存知のない場所かもしれません」
勿論本当はダンメルクの出身なのだが、これは事前に準備している答えの一つであった。
そもそもゼーラン王国やホランドら教会の人間も、ジャンヌの出自については探っているだろうし、その点については抜かりなく〝作り〟こんである。
「そう。では、クヴンハウのような街は初めて?」
クヴンハウとは、彼女らのいる王都の名前である。
「初めて――ではございません。記憶にないくらい幼い頃ですが、昔クヴンハウを訪れた事はございますし、それにダンメルクのオールフスにも、姉が神霊術を学びに行ったので、訪れた事がございます」
「まあ、貴女のお姉様が我が王国に――そのお姉様は?」
「私が九つになる前に、病で亡くなりました」
それは辛い事を聞きましたと、神妙に答えるクローディア。
ジャンヌも、気になさらないでくださいと作り笑顔で返す。
「もうずっと昔のことですし」
「では――礼儀作法やこちらの言葉も堪能なのは、それでかしら。でも地元から
「姉が亡くなった後、運が悪いというか、両親も火事で亡くなったんです。その後あたしは修道院に入り、あまり人目には触れない生活をずっとしてきました。同じジャンセンの一族を頼ろうかと言ってくれる大人もいたんですが、あたしのジャンセン家は下も下の下級の家柄でしたので、頼れるような親類もいませんでした。それにあたし自身、同じ一族の知らない人間と暮らすより、そちらの方が向いていたんだと思います」
「その修道院にいたから……。そんな辺鄙な所だったんですか?」
「はい。港町から離れた場所で、訪れる人間もほとんどいないような所です。なので、あたしに
何気ない会話だが、確実にこちらの情報を抜き取ろうという考えが透けている。おそらく後で裏を取られるのだろうが、それについては全て対処済みだ。
火事で家が潰れたジャンセンの家はオールボーの街に実際にあるし、そこに姉妹がいたという話は事実である。姉がダンメルクに行ったがそこで病で亡くなったのも、その妹の名前がジャンヌであるのもそう。
いや、何を隠そう〝今の〟ジャンヌことアムロイが女装して修道院で出会ったのが、その元々のジャンヌなのだ。
では、本物のジャンヌは? 彼女は姉と同じ病いで命を落としており、おそらく遺伝的な疾患だったのだろう。そしてその場にいたアムロイが、その本物のジャンヌの死を利用したのである。
クローディアに告げた通り、アムロイが流れ着いた修道院は修道院といってもかなり辺鄙な場所にあり、そこに住まう人間も、年老いた院長と〝本物の〟ジャンヌの二人だけだった――アムロイが来るまでは。
そのジャンヌが亡くなった事で失意の底に落ちた院長に、自分が彼女の代わりになりますと、今のジャンヌことアムロイは言ったのだ。
そうしてその院長を巧みに取り込み、アムロイはジャンヌという名の修道女となったのである。
その院長も一年前に老衰で死んでいるから、背後関係は完璧だった。
その後も他愛ない話を繰り返し、夕食はつつがなく終える事となる。
気になったのは最後まで王と王子が戻らなかった事であろうか――。