乳白色の霧が、どことなく紫煙めいていた。
近くの湖面に反射した空の色が、霧の
まるで異界の扉が開き、そこから冷気が漏れ出しているような。もしくは森閑とした大気が、有害な毒素に汚染されつつあるとでも言おうか。
いささか大袈裟な比喩に聞こえるかもしれないが、だからといって、単純にそれを妄想と断じる事も出来なかった。いや、そんな大仰な表現こそが、むしろ正確とさえ言えたのだ。
不気味な霧が漂うまにまに――
いや、森の梢のその間か――
トウヒの樹々を縫って、何かが蠢いていたからだ。
鳥にしては動きが緩慢すぎる。
虫にしては巨大にすぎる。
あえて例えるなら、水の中を揺蕩う魚とでも言おうか。そこが水の中ではないという事実は別にして。
だが、その形容はあながち間違ってない事を、すぐ知る事になる。
うっすらと色の透けたそれは――クラゲ。
ぶよぶよとした表皮の、海中に棲息するあのクラゲ。
それが宙に浮いているのだ。
紫だったり青だったり、はたまた生成りの色だったりと色彩は多様。そう、このクラゲはいくつも浮かんでいた。まるでここが、地上ではなく水中であるかのように。
けれども最も異様だったのは、そのクラゲ、目を凝らせばクラゲとは似て非なるものであったという事。クラゲに酷似しているが、クラゲとは明らかに違っていたのだ。まあ、宙に浮かんでいる時点でクラゲのはずはないのだが。
クラゲのカサの中。
触手の付け根にあたる口などがあるべき箇所に、人の顔があったのだ。
ただし、顔の下半分だけ。目より下の部分にそっくりのモノが、カサの中で左右に鏡写しで付いていたのである。
人の顔を持った、宙を漂うクラゲ――。
明らかな異形――いや、怪異妖邪の類いか。
その異形の浮かぶ魔界のような森に、人影が二つ。
二人の内の片方、背の低い、丸いシルエットの影が、場違いなはしゃぎ声を発する。
「きゃっきゃっきゃっ、こんなに
このクラゲが無害か有害かは分からずとも、怖気を振るう存在であるのは確かであろう。なのに、男の声は遊具を与えられた子供のように、無邪気に喜んでいる。
「〝閣下〟のお申し付け通りにしたまでにございます。実に……素晴らしい景色ですわ」
二人目の影。声だけでなくシルエットから、ドレスのようなものを着た女性だと分かる。
だが女性の声は閣下と呼ばれた男のものと違い、いささか引き攣った響きを滲ませていた。
「何だい? まだ怖いのかネ? まあそれも無理がなかろうが、さっき言った通り、この
「は……はい」
「フン。それとも何かネ? ワタシの言葉を疑うのかネ?」
「そ、そんな、滅相もございません……! ただ、邪霊を目にするのも初めてなのに、これほどの数となれば……その……いささか驚いてしまいまして」
女性の影が、語尾を萎ませる。
それもまた、むべなるかなではあったが。
「まあキミ如き凡人に、ワタシの思索など考えも及ぶまい。雛鳥に大鷲の心など、量れんと言う事だヨ――そんな事より、見ての通り実験は成功だ。予定通りなら、いずれ一、二週間もしたら自動で〝門〟は閉じる。なのでその間だけ経過観察をしておき給え。その後、キミは王都へ向かうといい。それまでの〝アイツ〟の面倒は、キミに任せよう」
「えっ……もしかして、わたくし一人で、ですか?」
「何を驚いてるのだネ。ただ見て記録するだけなぞ、阿呆でも出来る事じゃないか。いいか、ワタシは色々と忙しいのだ。この地の実験ばかりに構っていられんのは当然だろうが」
背の低い丸いシルエットが、呆れた声を上げた時だった。
トウヒの樹々がめりめりと音をたてたのは。
大木が折られた音。
クラゲとは別の何か。巨大な異変が、迫りつつあった。
やがて樹々の先端の更に上、森を覆う曇天に、巨大な影が覗いていた。
女性の影は、思わず生唾を呑み込む。
「〝あの方〟がいよいよ動き出したのだ。これはその狼煙だヨ」
「きゃっきゃっきゃっ」と、再び奇妙な笑いをこぼす、丸い影。
まるでそれに呼応するように、巨影はおぞましい唸り声のような音を、曇り空という天蓋から響かせていた――。
※※※
ゼーラン王国は、五つの地方に分けられる。
その中でノーユランは南に位置する区分になり、内海や小島が多い地方でもあった。
ジャンヌの出身地――という事になっている――オールボーもこのノーユランにある港町の一つで、そこから馬の足で半日から一日ほどの距離に、目的地であるスケーエンの街はあった。
なのでジャンヌ達一向は、出発地である王都クヴンハウから近場の港町へ向かい、そこから海に出て海路を使ってオールボーへ。そしてスケーエンへと馬を走らせるルートを取る事となった。
それが考えられる最短の道であったが、それでも片道だけで五日以上はみておかなければならない。
当然ではあるが、
被害とは――異世界とこちらが繋がり、邪霊に浸蝕される災害の事。
いくら災害といえど、これに
理由の一つは、協力者にある。
突如訪問したダンメルクの聖女クローディアの申し出により、クローディア付きの
仮にであるが、コーネリアほどの実力者であれば、彼女が幾人かの騎士を率いて現地に赴けば、それで事は足りるだろう。事実レオナルド騎士団長に怪我がなければ、彼がコーネリアの代わりになっていたのは間違いない。
しかしレオナルドが負傷中の今、他国の、それも支配国の騎士に災害鎮圧の全権を任せるのは、さすがに考えものであるし、かといって代わりの騎士となればオヴィリオかアクセルオぐらいになってしまう。だが、アクセルオではコーネリアを御せる確証がなかった。これは単に年齢的な問題である。
ではオヴィリオならいいかと言えば、やっと決まった
そんな事はないだろうが、万が一にでも鎮圧にかこつけてオヴィリオの身に何かあれば――つまりはコーネリアによる暗殺など――ゼーラン王国の損失は計り知れない。
となると、聖女のジャンヌがオヴィリオに同行するのが、力の加護的意味合いにおいてどちらにとっても一番安全だろうという事になり、そうなるとジャンヌの力を最も理解しているホランド司祭もこれに付き添う形になった。
最終的に、ジャンヌ、オヴィリオ、ホランド、コーネリア、そして道案内としてジャンヌの下女であるギルダに加え、四名の騎士――という部隊が
ギルダが同行した理由は、ジャンヌの身の回りのお世話というのもあるが、それよりも彼女がスケーエンの出身だったというのが大きい。
先だっての、クローディアらをもてなした食事の際に彼女の顔が曇っていたのも、自分の故郷でよからぬ事が起きていると耳にしたからであった。
果たして、スケーエンの街で何が起きているのか。何が待ち受けているのか――。
全ては着いてからで、今考えても栓のない事ではあるのだが、そうは言ってもスケーエンに着くまでには時間がある。
その分、不安が増さないはずもなかった――。