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第2話

 僕の指は細くて長い。筋張っている。春奈さんは「秋生あきおくんの指はお姉ちゃんそっくりね」と僕をひきとったときに言った。僕はそのとき少しふて腐れて両手をポケットに突っ込み、指を中で動かした。それが、この妙な癖の初めだった気がする。


 さて、実際に管弦楽部に入っても、僕は楽器は全く上達しなかった。もう、早い生徒は幼少の頃から種々の楽器を習っていたので、僕のように音楽の授業以外で楽器を見たこともないような新入部員は稀だった。それでも僕はかまわなかった。

 いつも、練習場の音楽室か外の廊下で(つまり合唱部と曜日がわりで共用だったから)部員が練習する音に合わせて制服の上着のポケットの中で指を動かし、脳内では実際よりもたえな音色が流れていた。

 あまりやる気はないが休まずに出席する部員に対し、他の生徒は好意的な無関心を示していた。要するに、人畜無害ということ。たまになぜ楽器をやらないのか尋ねられれば、僕は「音を聴くのが好きで管弦楽部にいちゃいけないかな」と逆に質問し、それも本気で答えていたので、大概の人たちはそれで納得してくれた。

 ただ一人、部長の有紀さんを除いては。

「ねえ、何でもいいから楽器をやってほしいな」

 二つに結んだ髪の束を、利き手の方だけいじりながら、彼女はたまに声をかけてくる。

「発表会があるでしょ。外部コンクールは出る人は限られるけど、校内発表会は全員で演奏するのがルールなの」

 僕の目は有紀さんの少し傷んだ髪束の先の動きにいっている。その細い髪の先のぴょこんぴょこんとした動きに音色を感じて、ポケットの右手がうずく。

「僕は失格ですか」

 本気でそういうことかと思って言ったのだが、有紀さんは一気に頬を赤らめた。

「そんなことを言ってないじゃない。ひがしくんて、何でそんなにひねくれた言い方するの」

 少し涙ぐんだように見えた。

 そこで僕の音色が中断する。後ろめたい嫌な気分になる。有紀さんは、部活の中では大所帯の管弦楽部を一生懸命にまとめ上げ、事務的なことから練習の采配までこなしている。そのことは見ていて知っていた。そういう彼女にしたら、僕の言い方は投げやりでやる気がないように聞こえたに違いない。

 僕は反省した。

 あの、ものにこだわらない春奈さんと暮らしているためか、僕はつもりはないのに、期せずして人を怒らせてしまうことがある。そのことには最近気がついていた。

「ごめん、山県さん」

 それは彼女の姓。お互い名前で呼び合うほど親しくはない。

 家に帰ってマンションの部屋の鍵を開け、中に入ったときに、右側の部屋の奥で慌てふためく気配がした。見なくても分かる。男の人が来ているんだ。僕は春奈さんとお相手が苦笑し、急いで服を着る光景を思って心の中で笑ってしまった。春奈さんは用心深いので、こういうことは──特に僕が大きくなるにつれて、滅多になくなっていた。僕からすれば久しぶり。

 何となく幼少期のことなどを思い出して忍び笑いをしつつ、足元を見て、僕はおや、と異変に気がついた。

 靴。

 大きくて、見るからに高級そうな黒光りする靴。

 あの目の優しい人の靴ではない。

 急に落ち着かない思いが僕のうちにこみ上げてきた。

 ポケットの中の指が固く閉じられた。これでは音色どころではない。

 僕はそのまま急いで自分の部屋に入りドアを閉め、鍵まで掛けてしまった。

 部屋の外の音にも意図的に神経をいかせないようにした。ふと思いついて、自分のパソコンを開いて音楽をかけ始めた。

 高校生の僕は、春奈さんと一緒になれないことは当然もう知っている。でも、もしそうなったらいいなとはときどき思っていた。春奈さんが僕のお金を使っていても、一緒になってしまえばうやむやにできるんじゃないかって。そう思っていた。

 子どもの頃はお母さんになってもらってもいいと思っていた。でも、僕の記憶の母と春奈さんは姉妹とはいえかなり雰囲気が違うので、その思いはだんだん薄れていっていた。なので、ではお嫁さんになってもらおうかとも思っていたのだ。

 春奈さんの日常を知っている僕は、奇妙に成熟した知識と、他方で幼稚な思慕が共存していた。

 共存。そう、共存して違和感なく、不協和音を奏でることはないままに来ていたのだ。

 僕と同じシチュエーションに置かれた男子はどういうふうに思うのか、僕には分からない。

 でも、ポケットの中の指はいつも落ち着いた音色、弾んだ音色、優しい音色ばかりを奏でていたのは確かだ。


 パソコンからはバロック音楽が流れていたが、僕は動画チャンネルを変えてみて、とうとうメタルっていうのかな、刺すような音が繰り返し飛び出してくるような曲に落ち着いた。部屋の中で立ったままその音楽とも言いがたい音、音色とも言えない音に身を任せていた。

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