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第3話

 その翌週、僕はすでに管弦楽部を退部していた。どうしてか。

 僕のポケットの指は音を奏でなくなってしまったから。

 急に、味覚でも失ったかのように、音は鳴り響かなくなった。

 そして、皆が練習のためにばらばらに鳴らしている音が、まるできつすぎる雑音のように聞こえるようになってしまったから。

 どうせそこにいるだけだった存在の僕は、退部届を管弦楽部の連絡用ポストに入れただけで済ませた。誰も気にもしないだろうし、皆の前で退部を告げて理由を聞かれると面倒だったから。

 部活動を辞めた僕は、放課後になるとすぐに学校を出たが、そのまま帰るのは気が引けた。

 春奈さんの新しいは、あまり遠慮がない。いや、一度も僕と顔を合わせていないから、もしかしたら僕の存在さえ知らないのかもしれない。一度早めにマンションに帰ったが、ドアを開けた瞬間にあの靴が目に入って、そのまま僕は外へ飛び出した。そのときは、久しぶりに非常階段で上階へ上がって、金属の手すりに凭れて富士山を見た。

 富士山はかつてほど僕の想像力を掻き立てはしない。季節がら冠雪していたが、何だか薄汚れて見える。

 凭れている手すりも、子どもの頃腕を伸ばして掴み体を浮き上がらせたころはよく滑って、新しかった。今はそれもベージュの塗装は剥げて、多分今掴まったら、手のひらが痛いと思う。

 その日、僕は下校しつつ、この後どうしようか考えていた。もう数日、駅前の本屋やマンション近くの図書館で時間をつぶしていた。でも、何も身が入らない。本を読む習慣もないし、学校の勉強をする気にもならなかった。

 そういえば、僕には好きなことがないのかもしれない。

 音色が聴こえなくなった以上、それは正しいように思われた。

 『精一杯生きる』などという言葉は、十七の僕にはもう色褪せてしまっていた。春奈さんが自分から完全に離れて、夢においても現実においてもそれは動かしようもないことだと悟って、そのとたんに僕には喜びというものが消えてなくなった。そう、音色とともに。

 いっそのこと、今日はまっすぐに帰ってみようかと思いいたった。

 ふつうはそうではないか?

 やることがなければ家に帰るものだ。


 春奈さんのマンションの最寄の商店街を歩いた。古い商店街で、個人商店がまだ多く軒を連ねている。お茶屋さん、花屋さん、コーヒーショップ。

 ふと視界の端に間口の狭い暗い店が映った。こんな店は見ても面白くもないし用事もなかったから、これまで気にも留めなかった店だ。

「金物」

 その意味が僕はよく分からなかったが、何か気が引かれて中を窺い窺いしつつ足を踏み入れてみた。

 キッチン用品の店なのか。家電ではなく、刃物。

 薄暗い店内の右側に、たくさんの包丁が並んでいた。

 春奈さんはまめに料理をして僕を養ってくれたが、キッチンにある包丁は一種類だけだった。だから、先の尖った包丁を見たときはひやりとした。随分恐ろしいものを、平気でこんな店で売っているものだと驚いた。

 でも、その次に、少し面白い考えが浮かんだ。

 僕はいろいろの刃物たちを丹念に観察しはじめた。

 三十分くらいの後、僕はマンションに一人でいた。春奈さんはどこかに出かけていて、留守。ちょうどいいと僕は思った。

 あの男は合鍵を持っているだろうか。いや、おそらくはない。

 あの優しい目の男も、その前の男も、合鍵は持っていなかった。

 春奈さんが僕のことを気にかけたわけではなく、単に資産に手をつけられることを恐れていただけなのだろうということを、僕は今はっきりと悟った。

 ともかく、僕は合鍵のあるなしであの男が来たことがすぐに分かるだろうと考えた。

 インターホンが鳴ったら、それはその男が来たと云う事だ。

 僕は黙ってマンション入り口のロックを解除し、そのまま玄関の内側でじっと待つ。

 チャイムが鳴ったら思い切りドアを開け放つ。

 戸惑う男。

 そこに、ポケットの中のこの刃物を取りだすのだ。

 刺しはしない。脅すだけ。男の惨めな表情を見さえすれば僕は満足だ。それで許してやる。

 楽しい妄想に僕の心臓が鼓動を増した。


 それからずっと待つ。

 コートを着たまま、ポケットに例のものを裸身のまま刺すようにつっこみ、その味わいを指で何度も確認した。

 指を切らないように、でも切って血が出る寸前くらいまですれすれに。

 そしてとうとう、インターホンが鳴った。僕は素早くロックを解除した。

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