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第6話 絆の萌芽

 あの秋季大会準決勝での敗北から、俺の日常は文字通り野球一色に染まった。

 再び甲子園を目指すと決めた日から、一日たりとも無駄にはできなかった。


 悠人のノートに記された理論は、確かに俺に新たな力を与えてくれた。だが、それを試合で最後まで発揮しきるための絶対的な体力が、今の俺にはまだ足りない。

 全国の強豪と渡り合うためには、この冬の過ごし方が全てを決めると言っても過言じゃなかった。


 地獄のような走り込み、凍えるような早朝からのウェイトトレーニング、そして、指先の感覚がなくなるまで繰り返す投げ込み……。悠人のこの体は、毎日悲鳴を上げていた。何度も心が折れそうになった。


 だが、その度に、俺は悠人のノートの片隅に書かれていた言葉を思い出す。「限界とは、自分が決めた幻想に過ぎない」。そして、あの秋のロッカールームで、高木先輩に誓った言葉。「次は、もっともっとスタミナをつけて、高木先輩の負担を減らせるようにします」。あの悔しさが、俺を何度も奮い立たせた。


「来栖、最近、本当に見違えたな。顔つきも、体つきも、別人みたいだぞ」


 冬休みに入って間もない頃、自主練習を終えた俺に、キャプテンの佐伯先輩が声をかけてきた。彼の言葉には、純粋な期待が込められているように感じられた。


「……まだまだです。もっと強くならないと、夏は勝てませんから」

「フッ……頼もしいじゃねえか。お前と高木がいれば、今年の青葉は本気で甲子園を狙える。俺たち上級生も、負けてられねえな」


 佐伯先輩の言葉は素直に嬉しかった。

 チームの中心選手として認められ始めている。その信頼に応えたいという気持ちが、さらに俺を奮い立たせた。


 高木先輩との関係も、より深いものになっていた。

 先輩は、秋の大会以降、俺に対しての接し方が明らかに変わった。以前のような刺々しさは消え、エースの座を争うライバルとして、そして共に甲子園を目指す戦友として、互いを高め合う存在になっていた。


「来栖、今日のブルペン、あの新しい変化球、かなりエグかったぞ。どうやって投げてるんだ?」

「高木先輩こそ、ストレートのノビ、また上がったんじゃないですか?」


 練習後、二人で自主的に走り込みをしたり、互いのピッチングについて意見を交換したりする時間が増えた。

 それは、俺が上杉奏多だった頃にはなかった、新鮮で、そして心地よい時間だった。彼もまた、俺という存在に刺激を受け、エースとしての責任感を、より一層強くしているのが分かった。


 チーム全体も確実に成長していた。

 そんな日々の中、俺は時間を見つけては、悠人の部屋に残された野球理論ノート以外のもの……を調べてみることがあった。


 そこに綴られていたのは、選手としての成功への渇望ではなく、純粋な知的好奇心と、野球というスポーツの奥深さへの探求心だった。「この投球フォームならば、理論上は初速と終速の差を最小限に抑えられるはずだ」「あの変化球のメカニズムは、物理法則に照らし合わせると……」といった記述が、マニアックなまでに詳細な計算式や図と共に延々と続いていた。

 彼にとって、野球はフィールドでプレイするものではなく、頭の中で完璧な理論を構築し、それを証明することに最大の喜びを見出す対象だったのかもしれない。


 冬休みが近づいたある日、マネージャーの美波が、練習後に俺のところにやってきた。その手には、丁寧にラッピングされた小さな箱を持っている。


「来栖君、これ……もうすぐクリスマスだから……いつも、頑張ってるから、その……よかったら」


 頬を赤らめ、少し俯きながら差し出されたのは、手編みのマフラーだった。


「……え……あ、ありがとう、上杉さん」


 俺は、戸惑いながらも、それを受け取った。手編みのマフラーなんて、生まれて初めてもらったかもしれない。不器用な俺のために、一生懸命編んでくれたのだろうか。


「……すごく、嬉しいよ」

「う、うん……! あのね、来栖君……」


 美波は、何かを言いかけたが、結局、「ううん、なんでもない!」と首を横に振って、慌てて部室へと戻っていった。


 残された俺は、マフラーの温かい感触と、彼女の優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 長く厳しい冬が明け、グラウンドの隅には、ふきのとうが顔を出し始めていた。春の気配が、少しずつだが、確かに感じられる。俺たちの体も、心も、一冬越えて、見違えるように逞しくなっていた。


 三月。球春到来を告げる、練習試合解禁の日。

 その日のミーティングで、佐竹監督が、静かに、しかし力強い口調で俺たちに告げた。


「……今月末、帝都実業との練習試合が決まった。今回の練習試合は、特別な意味がある」


 その言葉に部室がどよめいた。そして、監督は言葉を続ける。


「……昨夏、不慮の事故で亡くなった、うちのエース、上杉奏多……。彼の追悼の意味を込めて、帝都実業さん側から、この時期に試合をしたいと申し出があった。もちろん、うちはそれを受ける。……そして、必ず勝つぞ! あいつのためにも、そして、俺たちの夏のためにも!」

「「「押忍!!」」」


 部員たちの気迫のこもった雄叫びが、部室に響き渡る。

 俺は……来栖悠人として、その輪の中にいた。自分自身の……上杉奏多の追悼試合。こんな数奇な運命が、他にあるだろうか。


 必ず勝つ。そして、俺が生きていた証を、このマウンドで、この体で、もう一度刻み込むんだ。悲しみを乗り越えようとしている美波に、そして、俺を信じてくれる仲間たちに、俺たちの成長した姿を見せるんだ。



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