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第7話 未来への序章

 そして、運命の追悼試合当日がやってきた。

 三月とは思えないほど暖かな日差しが降り注ぐ青葉学院グラウンド。スタンドは、朝早くから詰めかけた観客で埋め尽くされ、異様な熱気に包まれていた。

 帝都実業との一戦、そして何よりも「上杉奏多追悼試合」という特別な意味合いが、多くの人々の注目を集めているのだろう。


 試合開始に先立ち、グラウンドの中央では、『上杉奏多』を追悼するセレモニーが執り行われた。

 両チームの選手たちがダイヤモンドを囲むように整列し、スタンドの観客と共に黙祷を捧げる。

 美波が、青葉学院の代表として、震える声で、それでもはっきりと、兄への追悼の言葉を述べ、ピッチャーズマウンドに純白の花束をそっと供えた。

 俺は、来栖悠人として、その光景を、言葉にできない想いで見つめていた。込み上げてくる感情を抑えるのに必死だった。


「プレイボール!」


 主審の力強いコールが、春の空に響き渡る。


 今日の青葉学院の先発マウンドには、エースナンバー「1」を背負った、高木先輩が立っていた。

 彼の表情には、いつもの飄々とした雰囲気はなく、並々ならぬ決意と、亡き親友への想いが痛いほどに滲み出ている。

 帝都実業のトップバッターが、鋭い眼光でそらを睨みつける。昨夏の覇者としての貫禄、そしてこの特別な試合への集中力。それは、相手チームからもひしひしと伝わってきた。


 第一球。唸りを上げるようなストレートが、キャッチャー佐伯先輩のミットに突き刺さる。


「ストライィィーック!」


 その一球で、グラウンドの空気がピンと張り詰めた。

 高木先輩は序盤から気迫のこもったピッチングを見せた。ストレートは力強く、冬の間に磨きをかけたスライダーのキレも抜群だ。彼の成長は、俺にとっても大きな刺激になっていた。


 しかし、相手はあの絶対的王者、帝都実業。百戦錬磨の強豪校だ。簡単には抑えさせてくれない。ヒットやフォアボールでランナーを出し、じりじりとプレッシャーをかけてくる。


 試合は、序盤から息詰まる投手戦となった。両チームとも再三チャンスを作るが、あと一本が出ない。スコアボードには、ゼロが並び続ける。


 そして迎えた六回表、帝都実業の攻撃。

 先頭バッターに粘られた末にフォアボールを与えると、続くバッターにもヒットを許し、ノーアウト満塁のピンチ。マウンド上の高木先輩に、明らかに疲労の色が見え始めた。


 普段なら1試合程度なら楽に投げ切れる体力はあっても、精神をすり減らしながら魂のピッチングを続けてきたことで、その3倍も4倍も疲労が蓄積されたのであろう。


 ここで、監督の佐竹先生がベンチを出て、ゆっくりとマウンドへ向かう。そして、俺に視線を送った。


「来栖! 行けるか!」

「……はい!」


 俺は、力強く返事をし、ブルペンからマウンドへと向かった。

 上杉奏多の魂を宿した、この一年坊主の体が、今、この特別な試合の、運命を左右するマウンドに立つ。


 球場全体の視線が、俺に突き刺さるのを感じる。期待、不安、好奇……そして、何よりも、この試合に込められた特別な想い。


 高木先輩がマウンドを降り、俺とすれ違う。彼の額には、びっしりと汗が滲んでいた。


「……来栖、頼む……。奏多のためにも、この試合、絶対に勝つぞ」


 かすれた声だったが、その瞳には強い力が宿っていた。それは、亡き親友への誓いであり、チームメイトとしての信頼の証。


「はい、高木先輩。……必ず、抑えます」


 俺は、力強く頷いた。先輩の想いも、チームの想いも、そして……俺自身の、この野球への未練も、全てこの右腕に込める。


 バッターボックスには、帝都実業の四番。昨夏、俺たち青葉を苦しめ、優勝旗をその手にしたチームの主砲だ。その鋭い眼光が、俺を射抜く。


(……なめるなよ)


 俺は、静かに闘志を燃やす。キャッチャーの佐伯先輩が出すサインに頷き、俺は初球を投じた。


 ノートの理論と、俺の経験が融合した、渾身のストレート。


 ――ズドンッ! 乾いたミット音。バッターは、手が出ない。


「ストライィィーック!」


 球場のどよめきが、肌で感じられる。

 続く二球目、アウトコース低めに鋭く沈むスライダー。空振り。


 俺は、大きく息を吸い込んだ。そして、ノートに書かれていた「究極の魔球」……いや、まだ未完成だが、今の俺が出せる最高のボールを、投げ込む。


 指先から放たれたボールは、打者の手元で、信じられない変化を見せた。


 ――カッ! 鈍い音と共に、バットが空を切る。


「ストライィィーック! バッターアウト!」


 三振! ノーアウト満塁のピンチを、俺はまず一人、斬って取った!


 続くバッターは、帝都実業の五番。前の打席で痛烈なヒットを放っている油断できない相手だ。 しかし、今の俺のピッチングは、彼の想像を遥かに超えていたようだ。

 初球、インコース高めに食い込むようなライジングボール。バットは空を切り、キャッチャーミットに突き刺さる。


「ストライク!」


 二球目、外角ギリギリに決まるチェンジアップ。タイミングを完全に外され、バットは回らない。


「ストライクツー!」


 そして三球目。俺は、再び、今日一番のストレートを投げ込んだ。


 ――ズバァァァン!! バッターは、ボールの威力に完全に押し込まれ、バットに当てることすらできない。


「ストライィィーック! バッターアウト!」


 連続三振! ツーアウト満塁! 球場のボルテージは、最高潮に達している。


 そして、帝都実業の六番バッター。彼は、俺の気迫に気圧されたのか、初球のストレートに手を出してきた。


 ――カツン! 詰まった当たりの、力ないセカンドゴロ。


 セカンドを守っていた選手が、落ち着いてボールを処理し、ファーストへ送球。


「アウトーーーッ!!」


 スリーアウトチェンジ! ノーアウト満塁の絶体絶命のピンチを、俺は、三者連続で完璧に抑え込み、無失点で切り抜けたのだ!


 ベンチに戻ると、チームメイトたちが、まるで優勝したかのように俺を揉みくちゃにした。


「来栖! すげぇよお前!」

「あの場面で三者凡退とか、神かよ!」


 監督の佐竹先生も、興奮した表情で俺の肩を強く叩いた。


「よくやった、来栖! これで流れは完全にうちに来たぞ!」



 その裏、青葉学院の攻撃。

 俺の気迫のピッチングに応えるように、打線が繋がりを見せる。先頭バッターが出塁すると、送りバントとヒットでワンアウト一、三塁のチャンス。


 ここで打席に立ったのは、キャプテンの佐伯先輩。


 ――カキィィン! 打球は、センターへ抜けようかという鋭い当たり! 帝都実業のショートが横っ飛びでなんとか捕球するも、一塁への送球が精一杯。その間に三塁ランナーがホームイン!


 青葉学院、ついに先制! スコアは1対0! ベンチもスタンドも、割れんばかりの歓声に包まれる。


 試合は、その後、両チームともに、息詰まる投手戦となった。


 俺は、七回、八回と、帝都実業打線を完璧に抑え込んでいく。冬の間の過酷なトレーニングが、確実に俺のスタミナを向上させている。以前の俺ならバテていてもおかしくなかっただろう。


 そして、バックを守る仲間たちの好守備も、何度も助けてくれた。このチームは、本当に強くなった。


 そして、運命の最終回、九回表。帝都実業の最後の攻撃。あとアウト三つ。それを取れば、俺たちの勝利だ。


 スタンドの応援が、地鳴りのようにグラウンドに響く。美波が、祈るように両手を固く組んでいるのが見えた。


 俺は、大きく息を吸い込み、バッターボックスに立つ帝都実業のトップバッターを見据えた。


 初球、アウトコースいっぱいにストレート。ストライク。

 二球目、インコースに食い込むスライダー。空振り。

 そして、三球目。俺は、今日一番のボールを、キャッチャー佐伯先輩のミットめがけて投げ込んだ。


 ――ズバァァァン!!! 乾いたミット音が、球場全体にこだまする。


「ストライィィーック! バッターアウト!」


 一人目、三振! 続くバッターも、気迫でセカンドゴロに打ち取る。ツーアウト。


 あと一人……! バッターは、あの四番キャプテン。彼の瞳には、まだ諦めの色はない。その鋭い視線が、俺に突き刺さる。


(絶対に、抑える……! この一球に、全てを懸ける!)



 初球、アウトコースいっぱいに、魂を込めたストレート。


 ――バシィィン! 「ストライーク!」 相手キャプテンは、微動だにしない。


 二球目、インコースに食い込むスライダー。これも見送る。


「ボール!」


 カウント、ワンボールワンストライク。球場全体が息を呑む。


 三球目、再びアウトコースへ、今度は少し沈むチェンジアップ。相手キャプテンのバットが、わずかに動きかけるが、止まる。


「ボールツー!」


 まずい、ボールが先行している。だが、俺の集中力は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。


 四球目。俺は、今日一番のストレートを、インコース高めに投げ込んだ。


 ――ズバァァァン!!! 相手キャプテンのバットが、力強く振り抜かれるが、ボールは空を切る!


「ストライークツー!」


 ツーボールツーストライク! 追い込んだ!


 そして、運命の五球目。


 俺は、サインに一つ頷くと、渾身の力を込めて、アウトコース低めいっぱいに、今日一番のストレートを投げ込んだ。


 相手キャプテンも、この一球に全てを賭けてフルスイングしてくる!


 ――バシィィィィン!!! 乾いたミット音が、春の空に高らかに響き渡った。バットは、ボールの遥か上を空しく切り裂いていた。


「ストライィィーック! バッターアウト! ゲームセットォォォ!!」


 審判のコールが、球場全体に木霊した。マウンドに歓喜の輪が広がる。選手たちは抱き合い、涙を流し、喜びを爆発させていた。俺も、その輪の中心で、仲間たちと共に、この勝利の味を噛み締めた。


 上杉奏多として果たせなかった、帝都実業からの勝利。それを、来栖悠人の体で、この最高の仲間たちと共に成し遂げたのだ。万感の思いが、胸に込み上げてくる。熱いものが頬を伝うのが分かった。


 試合後、グラウンドでは、改めて上杉奏多への黙祷が捧げられた。そして、帝都実業のキャプテンが、俺の元へ歩み寄ってきた。

 彼の瞳には、悔しさが滲んでいたが、それ以上に、清々しい光が宿っていた。


「……来栖、だったか。……完敗だ。お前のピッチング、見事だった。そして、お前たちのチーム、本当に強くなったな」

「……ありがとうございます」

「だが、これで終わりじゃない。……夏、必ず決勝で会おう。今度は、俺たちがリベンジする」


 彼は、そう言って、力強く俺の手を握った。


「ああ、待ってる。最高の舞台で、もう一度勝負だ」


 俺も、その手を強く握り返した。彼の言葉は、俺たちの新たな目標となった。


 ロッカールームへ戻る途中、美波が駆け寄ってきた。その大きな瞳は、喜びと感動でキラキラと輝いていた。


「来栖君……! おめでとう……! 本当に、今日のピッチング、すごかった……!」

「……上杉さん……」

「見てて……本当に、兄さんが……兄さんが力を貸してくれたみたいだった……。ううん、来栖君自身が、本当に頼もしかったよ。……ありがとう……!」


 彼女の言葉に何も言えなかった。ただ、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めるしかなかった。


 春の追悼試合での劇的な勝利。それは、青葉学院にとって、そして俺にとって、大きな自信と、夏の大会への明確な目標を与えてくれた。


 俺の、二度目の高校野球。そして、「来栖悠人」としての最初の熱い夏が、もう、すぐそこまで迫ってきていた。

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